サブタイトルに込めた思い

「『うただま』の経巡り」では、「ある音楽療法士のたどった14の物語」というサブタイトルをつけました。

 

 僕は、そもそも「音楽療法」ということにきっぱりした気持ちが持てず、出会えたオアイテと音楽したい、音楽によって心を通わせたいということだけが、自分に分かる目標だったわけです。それを「音楽療法」と呼び、自らを「音楽療法士」と名乗ることには少なからず、「敷居が高い」、「畏れ多い」という気持ちがずっ~と付き纏っていたのです。

 なので、この物語を「音楽療法」の実践記録として描き、「音楽療法」として読まれていくということには、抵抗感も大きかったのです。

 

 「僕の考える音楽療法」のあり方は、やや控えめに本の中でも書きました。

 控え目に、ということは、結局「これが音楽療法だ!」と言い切る自信のなさが表れたのに違いありません。

 

 ですが、考えてみれば、物語の主人公となっていただいたオアイテの皆さんは、「音楽療法という枠組み」があったればこそ、出会えた方々ばかりです。

つまり、オアイテの心身の健康が促進されることを願って、定期的に音楽する、そのために一定のお金をいただいて、僕がその活動を実現していく、そういう枠組みです。

 

「音楽療法」であるかはともかく、この物語では、「音楽療法という枠組み」で出会い、音楽を通してようようたどり得た、オアイテとの交歓のプロセスが描かれたのは、間違いないと思います。そこをみていただければ、「音楽療法」かどうかは、どうでもよかったのです。

 

 本を自分で読み返す中で、物語を振り返りつつ、自分の音楽療法観のようなことが、今は、ほんの少しですけれど、前に進んだ気がします。

 

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コメント: 4
  • #1

    fujii (火曜日, 12 7月 2022 09:20)

    『音楽療法』という概念なんですが、音楽療法に直接関わりのない素人の私から見ると、『音楽療法士の吉田豊先生が音楽療法という活動をしていらっしゃる』と単純に思います。やはり、音楽療法という枠組みの中でオアイテさんとの出会いも生まれていますので、吉田先生の気持ちは『うただまの経巡り』という本の名前にも、本の内容にも現れていますが、学会でも発表されている内容もあると思いますので、やはり、音楽療法というのはどうでも良かったというより、『吉田豊という音楽療法士が考え・実践してきた音楽療法』!としっかり宣言したしてもらう方が、素人にはスッキリします。つまり、音楽療法の手法はオアイテさんにより様々に変えていくべきもので、将来的視点を持ちながらも、その都度オアイテさんの状況で今の最善の活動を模索していくという活動が『音楽療法士の吉田豊さんの音楽療法』という捉え方をしていますが・・・。

  • #2

    まんどろ (火曜日, 12 7月 2022 09:33)

    ご指摘ありがとうございます。
     「療法」の2文字が、混乱と混とんの要因なんで、避けたい気持ちと、でも実際には、「療法」という枠組みが前提で活動している事実との間での迷いです。「療法」で求められるエビデンス、結果、ということで実践を振り返れば、「うただま」の物語が生まれる余地もなかったんじゃないかと思います。
     ですけど、こうして一番大事な「物語」をとにもかくにも書き上げたことで、「療法」ということが、自分にも受け入れられるものになりつつあります。

  • #3

    fujii (火曜日, 12 7月 2022 10:14)

    よく訳の分からない私のコメントで申し訳ありません。『うただま』の物語、素敵です。
     今の吉田先生の考えで良いと思います。

  • #4

    まんどろ (火曜日, 12 7月 2022 10:33)

    fujiiさん、ありがとうございます。学校の先生だと毎日毎日子どもとやって、成果がどうのとか、考えることは余りないかと思います。1回いくらかいただいて、それが「療法」だと思うと、なかなかにプレッシャーです。ある人から「マッサージは知っとるけど、音楽療法は聞いたことないわ」と言われたことがあります。マッサージ程の効果は滅多にありません。それでもお金を払ってくれる人に感謝し、オアイテとの間で音楽を立ちのぼらせたい、それが「療法」どうかはさておき、という気持ちでした。
    コメントをいただいて、もう少し自信もって「音楽療法士宣言」してこうと思いました。