9月の学会とCBCチャントのこと

ホンマ、恥ずかしいくらい久しぶりで、これを見てくれる人がいるのかどうかも不安です。

 

今年の9月、日本音楽療法学会、学術大会が岐阜であって、実行委員として活動してます。今年の学会は多様性、をテーマに掲げたこともあって、学会の会員だけじゃなくて、いろんな人に来てもらいたい、その努力の一つとして、会員じゃない人を対象に、2000円でゲスト会員になれる、そして、メインの基調講演とこれに続く、即興ミニライブは無料で見られるようにしてあります。詳しくはhttps://www.k-gakkai.jp/jmta23/index.html で、まずイベント全体の様子を眺めて、それから「会員登録」というバナーをクリックしてください。そうすると、一般の会員向けの案内があって(結構皆さん高いお金緒払うんです)、その下の方にゲスト会員や無料参加の説明があります。ごらんの上、参加の検討お願いします。

そのメインの基調講演は音楽家の大友良英さんをお招きしていて、しかもお話の後の即興ミニライブでは、即興演奏家の新倉タケオさんと大友さんのスリリングな即興が披露されます。

もう一つ忘れtならないのはわが「エール」のオンステージです。この即興ミニライブのオープニングを私たちエールがやることになってます。ただだけどただものじゃない、という素晴らしいプログラムですので、岐阜長良川国際会議場に是非お運びください。

 

 

もう一つです。僕が音楽療法士としてCBCの取材を受け、チャントで7月26日(水)午後6時過ぎ頃からオンエアになります。内容は僕へのインタビューもあるんですけど、何より、7月16日にあった「ライブスペース勢の!」をしっかり取材してもらったので、その様子がテレビで見てもらえます。

どれくらい、どんなふうにテレビで流れるのか、良く分からないので、うまいこと伝わるのかどうか不安ですけど、ちょっと期待もあります。   是非ご覧くださいネ。

 

 

 

即興シーンを振り返る

 大友良英さんの岩波新書「学校で教えてくれない音楽」に触発され、自分の即興活動をいろいろと振り返っています。面白いことがいっぱいありました。

グループの場合、やりながら約束事を作って、それを確認しながら音楽に変化をつけていく大友さんの手法は、自分なりにも近いことをやろうとしていたことも蘇ってきました。

 

 今回はまず、2010年の嬉野ふるさと会館で行われた「音楽療法フェスティバル」の太鼓とピアノの即興シーンを公開しました。https://youtu.be/QFKVnIFQfvA

 

 深いどころか、浅い考えもなく、ただただ、「こういけば、ああくるか」というやりとりを面白がっていただけなんですけど、実は、その時までの自分というものが、出てくるんだということを実感できます。ない袖は振れないし・・・。

 

 

 動画を見て、一緒に面白がってもらえれば、嬉しい限りですけど。

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大友良英さんの本を読みました

 1月も半分以上過ぎてしまって、今さら、「あけましておめでとう」なんて雰囲気じゃありませんねえ。

 ではありますが、まあ今年もこのブログでは「うただまの経巡り」をめぐって、動画も交えながら、様々に音、音楽をが共有されていくシーンを報告していこうと思うので、引き続き、よろしくお願いします。

 

 大友良英著「学校で教えてくれない音楽」(岩波新書)を読みました。

 いくつかの音楽シーンの実況中継のような記述があって、それを補うための動画も岩波新書のHPから公開されています。

 このような音楽シーンで、大友さんは、当然ですけど、初めから目的や方法を決めて音楽するんじゃありません。参加者の気持ちや、実際にやってくることを見極めながら、全身で応じていく、そうすると思ってもみなかったことが起こって、それが面白かったり、楽しかったり、美しかったりする、そういう音楽する体験をしていく話なんです。

 

 まあ、僕も似たようなことはやってきていて、ものすごく共感しました。それも、大友さんのミュージシャンスピリットが響いてるのが、ビンビン伝わる。何だか、自分のやってきたことにも「いいね!」をもらえたような気がしました。

 

 場所があって、オアイテがいて、面白そうな楽器があって、つい鳴らしてみたくなるよう気分になれば、音楽は始まる。始まれば、その音に惹かれ、導かれ、自分が音になっていく、そういうプロセスが音楽するという体験なんだと、つくづくと思いました。

 

 僕もそんなシーンがビデオにはある筈なので、またぼちぼち公開していこうかと思います。

 

2つの講演  その2、伊賀音楽療法研究会での勉強会

 三重県の伊賀地区は、音楽療法推進の先進地域で、定期的な音楽療法講座が継続され、先般僕が講師を務めた12月18日は、なんと第134回でした。積み重ねられた数字に、すごいことだな、と素直に感心しました。

 実は、ここも対面で講演会を開催するのは、久々のことであったとのことです。

 冷たい日で、道路の凍結なんかも心配したんですが、幸い午後は日差しに恵まれました。

 

 僕が伊賀で講師を務めるのは、3回目か4回目くらいかと思います。役員の皆さんとは、長年の音楽療法士仲間として、すっかり顔なじみ、いつと変わらぬ温かいもてなしも受けて、心地よく、参加者の前に立つことができました。

 今回のテーマは、「音楽療法の過程で生まれる物語 ~課題への視点ともう一つの視点~」としました。

 

 音楽療法では、特に専門性を意識すると、目的、方法を定めて、実践し、これを予め定めた目標に照らして、客観的に吟味しようとする、という筋道があります。

 

 音楽療法士の専門的な検証を否定するつもりは毛頭ありません。でも、それはそれとして、現場では思いも寄らない、面白いことがいっぱい起こってくる、そこを紡いでいく視点も、実は意味があるんじゃないか、ということで、いくつかの事例を動画を交えて紹介しました。

 

 ここは、音楽療法講座ですから、実際に音楽療法に取り組んでいる人たち20名ばかりのご参加がありました。専門家を目指すからこそ、素人の視点に立ち返って、素直に面白がったり、がっかりしたり、びっくりしたりする姿勢、そしての背景を探る気持ちは、大事なんじゃないかと、つくづく思います。

 僕が、著書「うただまの経巡り」で描いた物語、そういう視点から、再度ご自身の活動を振り返っていただければ、面白いこともいっぱい出てくるんじゃないかと、言いたかったわけです。

 

 ここでも3時間、皆さん、ばっちりと熱心に話を聞いてくださいました。何より、久々に対面での講習会が実現したことに、スタッフの方が安堵し、喜んでみえたこと、僕も同じ気持ちで、「ああ、みんなが普通に集まれるのは、ありがたい場なんだなあ」と嬉しく思いました

 

2つの講演  その1、ご高齢の身体障がいのある方々とのセッション

 感染症拡大予防ということで、人が集まって講演会をすることもすっかりなくなっていましたが、この12月は2つの講演会で講師をさせてもらいました。

 

 まず、12月7日に、志摩的矢のホテルで開催された、三重県障がい者「ふれあい交流会」(主催は三重県障害者団体連合会)です。僕と同世代か、それ以上の、つまりご高齢の身体障がいの方70名程を前に「くらしの中で、人と音楽する喜び」と題して2時間少々受け持ちました。

 

 前半は、おなじみ「エール」の動画などを紹介し、定期的に音楽で集う機会があると、それは例え月1回、あるいは数か月に1回の活動であっても、日常の暮らしに彩りが出てくる、また発表の機会があると、それが生きる張り合いにまでなっていく、というようなお話をしました。

 聴衆になってくださった皆さんは、とてもまじめに話を受け留めてくださり、動画も食い入るように見つめ、あってでもこっちでも温かいリアクションに包まれました。

 

 後半は、模擬セッション風に、10名ばかりの方に交代で前に出ていただき、楽器を使ったやり取りや音遊び、そして合奏などを試みました。

 最初は、「わしは音楽は聞くのは好きやけど、音痴やもんで・・・・」という、お定まりの遠慮もあったんですけど、そのうち、熱中して、結局は会場一同盛り上がって、終わることができました。

 

 全員が初対面でした。しかし、熱心に話に耳を傾ける姿から、皆さんの日々の真面目で一所懸命な暮らしぶりまでが、想像されました。よい出会いに感謝しています。

 そして何より、直に眼差しや息遣いも感じて、お話させてもらえること、また一緒に楽器を打ち鳴らして通い合う時間を持てること、当たりまえのことなんですが、今更ながら幸せに思いました。

 

奥村さん、再生の曲

 「うただまの経巡り」のストーリーの背景となった、僕のオアイテになってくれた人と、その音楽を少しづつ紹介しています。

 奥村さんには、長く辛い時期を過ごす中で、もう一度自らが動き出す、いわば再生のきっかけとなった3つの歌の作詞作曲がありました。

 「心に降る雨」「僕の花」に続いて、今回は「泣き歌」を紹介します。

 是非、動画の方、見てください。

 そして、「うただまの経巡り」、お持ちの方はもう一度見直していただければ、また何か思うところもあるんじゃないでしょうか。

 

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奥村さん、再生のきっかけとなった3つの歌

 「うただまの経巡り(へめぐり)」では、僕のオアイテになってくれた人たちの、まさにおんがくが立ちのぼってくる姿を物語として描きました。本ですから、もちろん文章です。で、文章ですから言葉です。

 

   僕が、音楽の現場で感動したり、他のいろんな人の感想を聞いたり、またオアイテその人の日々の暮らしに目を向けたりして、一体この音楽には、どんな思いがこもってるんだろうかと、考えて、考えて、時にはいっぱい想像もめぐらしながら、言葉を紡いでいきました。

 

 そんなオアイテの一人、奥村さんの、文字通り再生のきっかけとなった3つの歌を公開します。

 今回は、そのうちの2曲です。うただまチャンネルで、お楽しみください。

 いかがでしょうか。もし本をお持ちの方は、もう一度物語に帰って、いろいろな想像を巡らせてもらえれば、嬉しいかなあ、と思ってます。

 

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長年の音楽仲間の奥村さんと歌いました!

 「うただまの経巡り」で物語の主人公のモデルになってくれた人を少しずつ音楽やトークの動画で紹介しています。

 

 今回は、奥村さんの番です。奥村さんとはもう15年くらいになるんでしょうか、ずッと僕のところに通ってくれています。最初の頃は、一緒にギター弾いて、お互い知ってる歌を歌ってたんですけど、そのうちに「ライブスペース勢の!」が始まって、「MTRI」というグループ名で、ちょくちょく出るようにもなりました。変な名前ですけど、「も・た・れ・あい」のつもりで、付けました。

 奥村さんは村井楽器のギター教室の先生にもついて、どんどん腕をあげていきました。そうなると、ライブで僕と一緒に演奏するのは、僕が足を引っ張りそうなので、ソロの出演ばかりになってしまいました。

 

 それが昨年でしたでしょうか、何の拍子か、僕が好きな歌を好きなように歌う相方を、奥村さんにお願いして、勢の!でご披露することがありました。

 

 この動画は、ステージから数日後に、スタジオでレコーディングしたものです。

 「異邦人」「君恋し」「ダンシングオールナイト」の3曲です。選曲は僕のたっての希望でした。まあ奥村さんも、この3曲、決して嫌じゃないことは、十分に分かってたんで・・・。

 久々の「MTRI」で僕ら二人は、とっても面白かったんだけど、果たして皆さんにもお楽しみ、いただけるものかどうか・・・?!

 

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平和のリボン、素敵に演じました!!

平和のリボン、様々なプログラムの中で、私たち、「エール」のステージにのり、しっかりとパフォーマンスをご披露しました。

 

動画でも見ることができます。

 

この動画、コンサートのすべての記録映像です。時間の都合で、とりあえずエールだけ見ていただく場合は、42:10くらいから、僕のインタビューを含めると、52:00までです。

もちろん、他の演奏も素晴らしいので、是非ご覧ください。

 

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エールのみんなに聞いてみました

 音楽療法学会の広島大会で、「エール」をネタに、「知的障がい者バンドAのコミュニティ音楽療法による検証」というタイトルで研究発表をしてきました。この大会は、対面とWebによるハイブリッド開催ということで、実際に広島で行われた大会は終了していますが、Webの方はあとしばらく続いていると思います。ですので、音楽療法学会員で大会参加の方は、僕の発表動画を見ることができると思います。

 何せ15分だけの発表なので、エールの紹介がままなりません。少しでもエールの実態に触れていただきたく、このところ連続してエールを題材に動画をあげてきました。

 

 今回は、メンバーの自己紹介とインタビューの記録です。話し合いも試みましたが、話題があちこち飛ぶので、思い切って○✕クイズ形式で、メンバーとお母さん、そして安田陽子さんに尋ねてみました

 内容的には、内輪受けするようなものですが、エールの実態はにじみ出ている気もします。

 お楽しみいただければ幸いです。

 

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「エール」を語る、後半

 安田陽子さんと「エール」についてしゃべっていると、ついついメンバーの顔が思い浮かんで、それだけで楽しくなってしまいます。そんな周りの人をハッピーにする「エール」の話の後半も是非お見逃し無いように、YouTubeでご視聴ください。

 今月17日に、音楽療法の大会で「エール」をネタに発表するんですけど、そこでは、まあ研究発表というスタイルですから、かしこまって、難しそうな用語も駆使してやるんですけど、中身はこの安田さんとの対談で話してるような、面白くてチャレンジングな彼らの姿が、支える筈の僕らに感動を与えたり、一緒にやる充実感をくれている、そういうことだけなんです。

 でも研究発表も一所懸命にやってますので、音楽療法士さんで、僕の発表をWebでみれる人は、アクセスして、是非ともご声援ください。

 

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「エール」を語る、その1

音楽療法の広島での学術大会が近づいてます。僕はそこでエールをネタに、コミュニティ音楽療法のいくつかの視点を提示しながら、実践発表してきます。今回は久々の対面による発表なんですけど、Webでも参加できるハイブリッド方式の大会となってます。ハイブリットは、参加するほうは大したことはありませんが、運営に当たる方々は、ホントに大変だろうなあ、と思います。

 

 そこで、僕の研究発表を聞いてくれる人が、違った側面からもエールを受け留めてもらえるように「うただまチャンネル」で、「エールを語る」トークビデオを公開することにしました。

 ピアノでがっちりメンバーのパフォーマンスを支える安田陽子さんと、楽しく話しましたので。そちらを是非ご視聴くださいね。

 

 

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バンド・エール

 今日は、エールのことをちょっとだけ書きます。ほとんどのセッションやレッスンをリタイヤーして、他の音楽の先生に引き継いでもらった今も、僕が現役続行させていただいているバンドグループです。

もちろん音楽を演奏するバンドなんで、音楽がメインですが、そこは安田陽子さんがいてくれるので、僕の主な役割は、外部との折衝係です。

 

 9月は、久々のステージということで、エールはさいたまに出かけます。このことは、前回のブログにある「平和のリボン」のチラシをご覧ください。

 

 実は、その前の週は、音楽療法学会の学術大会というのが広島であり、僕はここでエールをネタに研究発表するんです。今年の学術大会は、現地開催とWeb開催のハイブリットということで、僕のプレゼンテーションは、現地だけでなく、動画でひと月位流れることになってます(もちろん音楽療法学会会員で大会参加費を払った人だけが対象です)

それと、年数回のデイキャンプが、9月の頭にあります。これは僕のスタジオにみんなが集まって、1日音楽するんです。

 ということで、カレンダーの9月は、エール特集月間みたいになってます。

 

 うただまチャンネルの方に「エールin台湾」のタイトルでステージの録画をアップしてあります。

 

 https://www.youtube.com/watch?v=miAcT6xlvQY

 

 この動画は、20195月に台湾の芸術系の大学のホールで、韓国のグループと一緒にステージを踏んだ時のものです。もともと、クラシックの演奏が前提のホールで、音響なんかはうまく調整されてません。でもまあ、やっぱエールの良さは出てるし、特に安田さんや僕が抜ける即興曲の「KODO」はいいなあ、と思います。彼らの「KODO」は、毎回、グループのベストパフォーマンスを更新するんで、さいたまも楽しみにしてます。

 

 皆さんにエールを面白がってもらえればと願っています。

 

 

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平和のリボン

 

「平和のリボン 一緒に歩もう!」と銘打ったコンサートが2022年9月22日(木)19:00(開場は18:30)から催される。主催は、韓国出身のマリンバ奏者、野田愛さんである。

 このコンサートでは、障がいのあるミュージシャンが韓国から招かれ、日本の障がいのあるミュージシャンも出演者に加わる。

 

 野田愛さんは自らも指導に当たるJアートアンサンブルの発表の場を日本で設ける際、精力的に日本人アーティストとのコラボレーションを行ってきた。しかし、コロナ禍の数年、多くのミュージシャンと同様に、野田さんたちも活動の場が失われ、今回が、久々のステージの企画となった。

 

 コロナ以前に、僕らのグループ「エール」は、北名古屋市、伊勢市、台湾台南市で、韓国のグループと同じステージで発表をした。

 また、この「平和のリボン」では、天才ミュージシャン新倉壮夫(にいくらたけお)さんも招かれていている。

 僕たち「エール」にとって、このイベントでのステージ発表は嬉しいことには違いない。同時に、壮夫さんや韓国のメンバーといった、何とも懐かしい面々との久々の再会なのである。

 

 

 イベントのタイトル「平和のリボン」について、直接野田さんの思いを聞いてはない。

 しかし僕らが、ステージに乗って演奏を披露し、観客やスタッフの皆さんと楽しいひとときを過ごす、これこそが平和の象徴となるんだ、という思いには何の違和感もない。

 今回のような大きなステージともなれば、その準備もなかなか大変なことは、容易に察しがつく。しかし、例えホールの舞台ではなくても、ミュージシャンを囲んで人が集まれば音楽はいつでも生まれる。

 

 今や、障がいのある人々の音楽会もまた、様々な規模で行われてきて、もはや日常の普通のシーンなりつつある。しかし、コロナの蔓延はこうした日常がいとも簡単に奪った。

 また平和と真逆の戦争、そしてその影が、平和憲法下の日本でも、いよいよ現実味を帯びつつある

 「平和のリボン」というコンサートが、厳しい現実に抵抗する程のものではないだろう。それでも、音楽で、ひと時、様々な人々と思いを共有しようとする、僕らの至極まっとうな営みには、誇りを持ちたいと思う。

 

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ようちゃんとの歌Part2

 中学校の子弟コンビ当時のオリジナル曲の続きです。ようちゃんの卒業後も2人でKSN(クサイナカ)の名で、地域イベントで声がかかると歌ってきた歌です。

 あの頃のキラキラ感は、二人ともどこにも見当たりませんけど、また歌える喜びをかみしめてます。是非動画でお楽しみください。中村潤さんのピアノがあるおかげで、途中演奏が止まってしまう心配もなく、ようちゃんだけでなく、僕もミスを気にせずやってます。

 

 

 2曲の歌詞です。言葉の使い方、僕は面白いなあ、と思います。いかがでしょうか?

 

君と一緒に時計をとめに行こう

 

君と一緒に時計をとめに行こう

時間すぎていくから 

たとえ雨でもいくよ

かぜひかないで

君と一緒に時計をとめに行こう

ボクはもう旅はしないさ 

君とならつきあえる

ボクでよければ

アイラブユー アイラブユー 

アイラブユー

 

 

奇跡の星めざして信じる道

 

奇跡の星めざして信じる 

道への道が三つに分かれている

どっちへ進めば いいのだろう

僕、左の道を行く、

私、右へいくよ

奇跡で会いましょう またね

僕は信じる 奇跡

ララララ ララッラ~ン 

ハア~ア

 

僕を信じて待っていてね 

たどりつくまで

必ず待っていて 

ちょっとさみしいけど

くじけそうな時も 

泣かないことちかう

奇跡で会いましょう またね 

僕は信じる 奇跡

ララララ ララッラ~ン 

ハア~ア

 

奇跡、希望に変えて 僕らのたび続く

奇跡で会いましょう またね 

僕は信じる 奇跡

 

ララララ ララッラ~ン  

ハア~ア

 

 

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ようちゃんとのオリジナル曲

 

 中学校の先生だった時、担任した生徒の一人がようちゃんでした。当時のようちゃんは人の輪に入って、面白いことを言っては周りを笑わせたり、和ませたりする愛嬌のある子どもでした。

 打楽器の演奏はとても優れてましたけど、本人は、「カッコつける」とでも言うか、ギターやエレキベースを弾くのを好み、そのさまは、なかなか決まってました。でもその頃は、かんたんギターなんて考えも及びませんでしたから、文字通り、格好だけなんですけど……。

 

 そのようちゃんがノートに詞を書くようになり、それも毎日、2つも3つも作ってくるんです。家でノートに書いてくるんですけど、容易には読めません。それでも、パソコンのキーボードを叩くことを覚えてからは、朝一で作詞を入力し、プリントアウトすると歌詞を共有できるようになります。

 その場で僕がギターのコードを弾きながら、その歌詞に節をつけていきます。もちろん詞もいい加減ならメロディもデタラメですが、ようちゃんも適当に合わせて歌ってきます。午前中はそんな感じで過ごす日も結構ありました。

 

 本人はサザンやさだましをパクったとか言う時がありました。もちろんプロの歌詞に触発されてのことでしょうけど、真似やパクリの痕跡は見当たりません。

 多くは支離滅裂なラブストーリーなんですけど、なかなか気の利いたフレーズが随所に登場します。彼の作詞は、僕の書いた最初の本「ぼくらはみんなミュージシャン」でいくつか紹介したので、お持ちの方は見てみてください。

 

 で、そのデタラメに歌った歌を僕はもう一度時間をかけて、仕上げるようになりました。そのうちの5曲は、CDの自主制作をサポートする人が現れて、リリースしました。CDが出て、新聞にも載りましたが、紅白にもレコード大賞にも呼ばれることなく、2人の勢いは自ずと消滅してしまいました。

 

 

 その後、ようちゃんから元気というものが失われて、長くしんどい時間が過ぎていきます。

 家から出られないという大変な落ち込みからは、少し回復し、でもかつての活力は想像もつかない日々となりました。

 

 2人オリジナル曲を歌いまくっていた頃からは25年くらいになるのでしょうか……。

 様々な事情が重なって、ようちゃんと僕のユニットKSNがステージに乗る機会がありました。

 

 長いブランクはありましたけれど、オリジナル曲があることで、年を取った2人がこうして一緒に歌えること、良かったなあと、しみじみ思います。演奏の折々、かつてのようちゃんが、瞬間、現れるようにも感じてます。歌ってるときは、2人の関係性が時空を超えるとでも言うか……。画面は爺さんとおっさんなんですけど。まあかっこいい潤さんのピアノがあるからいいか、ということで、是非動画もお楽しみください。

 

 「うただま」チャンネルで紹介した「だきしめたい夜」の歌詞を掲載します。この動画では、ステージの時サポートしてくれたミュージシャンのアドバイスで、少し言葉を付け足して歌っています。

       

 

   だきしめたい夜

だきしめたいよるを まったけど なかなかこない

さぶくて てがうごけなくて

あしが いうこときかない

すでにからだごと こおりに なってしまった

これでは だきしめられないよ あなた

 

だきしめたいから けっしんつけたよ

きせき しんじて たびだつ

くもつきぬける はやさで いくよ まっていてね

せかいを あいしてる せかいを よごさないで

だから わすれないで しんじてよ あなた

 

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音楽療法士になった僕

このプログでは、「『うただま』の経巡り」執筆の背景や、タイトルのことなど、いろいろ思いめぐらしたことを、思いつくまま書いています。

本でも少し書きましたが、僕が音楽療法士になったきっかけは学校教員時代の障がいのある子どもとの音楽活動でした。そこが転身のきっかけ。

 

でもそこから音楽療法士に直結していたわけではありません。

たまたま音楽療法の大先達と出会い、その先生が学術大会に誘ってくださって、音楽療法が視野に入ってきた始まりです。

事情が少しずつ分かってきて、目指すようになった認定資格は、大変高いハードルでした。

音楽療法が非常に難しい仕事だと分かってきたので、3年程かかって認定をいただいた時点でも自ら音楽療法士を名乗るのは、畏れ多いことでした。

しかし、研修会などで講義を聞くと、まさに音楽療法は僕が学び、実践するフィールドに間違いない、と素直に確信しておりました。自分の実践が音楽療法なのかどうかは、さておきです。

 

先生を辞めた時、3つの問いが浮かんでいました。

  音楽療法とは何か?

  僕のやりたい実践はどんなものか?

  僕の実践と音楽療法は関係があるのか、ないのか、あるとすればどんなことか?

 

 

歳を取りました。毎年学会で実践報告するためにその都度、細かい振り返りをし、その集積と、10年、20年、25年を超えたオアイテが、僕の仕事上の財産となりました。思えば、経験や知識をちびちび貯めこんで、音楽療法の小金持ち(ホントのお金は儲かりません)のような人間になったもんです。

 

他の人には、全くどうでもよいような疑問を持ち続け、目の前のオアイテとやる手応えだけを手掛かりにして実践しつつ、歳をとれたので、大いに満足しています。

 

3つの問いは、答にはほとんど意味がないのでしょうが、問い続けたことには、大事なことがあったのだろうと、今は、思えます。

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安田陽子さんに聞く(「うただまチャンネル」開始!)

 HPのリニュアルで、少し前からブログを定期的に書き始めましたが、同時にYouTubeチャンネルも準備しておりました。

 文字でお伝えするよりは、おしゃべりや演奏の動画の方が、適切な場合もあるんで、両方で発信しようと考えました。

 それで、まず皮切りに、安田陽子さんにご登場願いました

 

 安田さんとの出会いは、僕が村井楽器で、ヤマハの講師さんを対象に「音楽療法入門講座」なる月2回程の連続講座をやった時にエントリーしてくれた時でした。13年(?)くらい前でしょうか……。

 僕の話は、普段のヤマハの研修とは視点が全く違っていたでしょうし、分かりにくい喋りになっていたに違いありません。それでも安田さんは興味を示して、やり口や道具ですね、そういう僕の使うものを、恐る恐る(多分)、取り入れてくれました。

 実は安田さんの生徒の中にも、障がいのある子ども(当時、今はおとな)がいて、「何とかしたい」という気持ちだったんでしょうねえ。

 

 やがて、尾鷲に出かける僕のセッションに同行し、その過程で「エール」なるグループも誕生していくわけです。

 

 安田さんは、情熱を持って音楽し、生徒さんの出してくる音にその都度響き合う人で、これは何も僕と出会わなくても、すでに備わっていたことでしょう。

 そこへ、僕と一緒にやって、即興性というか、その場の音楽というものを次々出してくるようになったんじゃないかとも思いますねえ。

 

 もう一つ、振り返る、様々に考える、そういうおしゃべりが二人で楽しくできたのは、尾鷲が結構遠くて、長いドライブだったからかも知れません。まあ、僕は音楽する時は言葉をあんまり使いませんけど、その後、しゃべったり、書いたり、これは結構一所懸命にやります。そこを安田さんと共有できたのは、お互いの肥やしになったことと思います。

 

 

 安田さん(だけじゃないんですけど)に僕のオアイテを引き継いでもらい、めでたくご隠居のような有り難いポジションで、ブログや動画を発信できるようになりました。

 

 

 ということで、「うただまチャンネル」では、カリキュラムやテキストのない、僕には当たり前のセッションで、安田さん戸惑ったことなどを、お話してもらいました。

 これからもたびたびご登場願うことになると思います。 

 

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サブタイトルに込めた思い

「『うただま』の経巡り」では、「ある音楽療法士のたどった14の物語」というサブタイトルをつけました。

 

 僕は、そもそも「音楽療法」ということにきっぱりした気持ちが持てず、出会えたオアイテと音楽したい、音楽によって心を通わせたいということだけが、自分に分かる目標だったわけです。それを「音楽療法」と呼び、自らを「音楽療法士」と名乗ることには少なからず、「敷居が高い」、「畏れ多い」という気持ちがずっ~と付き纏っていたのです。

 なので、この物語を「音楽療法」の実践記録として描き、「音楽療法」として読まれていくということには、抵抗感も大きかったのです。

 

 「僕の考える音楽療法」のあり方は、やや控えめに本の中でも書きました。

 控え目に、ということは、結局「これが音楽療法だ!」と言い切る自信のなさが表れたのに違いありません。

 

 ですが、考えてみれば、物語の主人公となっていただいたオアイテの皆さんは、「音楽療法という枠組み」があったればこそ、出会えた方々ばかりです。

つまり、オアイテの心身の健康が促進されることを願って、定期的に音楽する、そのために一定のお金をいただいて、僕がその活動を実現していく、そういう枠組みです。

 

「音楽療法」であるかはともかく、この物語では、「音楽療法という枠組み」で出会い、音楽を通してようようたどり得た、オアイテとの交歓のプロセスが描かれたのは、間違いないと思います。そこをみていただければ、「音楽療法」かどうかは、どうでもよかったのです。

 

 本を自分で読み返す中で、物語を振り返りつつ、自分の音楽療法観のようなことが、今は、ほんの少しですけれど、前に進んだ気がします。

 

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「うただま」と「胸キュン」

「『うただま』の経巡り」では、僕がオアイテと出会う→音楽する→音楽しながら何かオモシロイと感じる→つまりそのオアイテと僕との間で、それまで思ってもなかったような感じの音楽を体験する、というようなプロセスを一所懸命に書いてみました。

 

 まあ「うただま」なんて造語でなくても、音楽で胸がキュンとなるような体験と言えば、どなたでも、ご自身の体験と照らし合わせて受け止めていただけるのかなあ、と考えてます。

 「胸キュン」は、突然やってくる、言葉では言い表したり伝えたりすることが難しい、でも感覚的には、とても確かな実感を伴っている、往々にしてほかの人とは簡単には共有できない自分だけの体験として、感じられる・・・・・。ほかにもいろいろ特色はありそうですが、そういう実体験を「音楽で胸キュン」と捉えることができるような気がします。

 好きなアーティスト、大好きな曲だから、いつもこの「胸キュン」がやってくるとも限らないんじゃあないでしょうか。

 胸に刺さるような感じ、そしてじわっと体中に広がる感動、そんな感覚の体験です。

 

 プロのミュージシャンなら、聴衆にいつだってこの「胸キュン」を届けたい。そのなるようにあらゆる仕掛けめぐらすかも知れません。でも、「胸キュン」は一方が作って相手に届けるものじゃなくて、その間で起こるんですよねえ…。

   実は、「うただま」でもそこが一番言いたいことだったのかも……。

 

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4冊目の本

 先生を辞めてフリーになった時、初めて本を出してもらいました。タイトルは、「僕らはみんなミュージシャン~知的障がいのある子どもたちとの音楽活動の記録~」。フリーになる前の中学校の特別支援学級が舞台の子どもと音楽の出会い、そしてスウェーデンの音楽専門日中活動所EKOを訪ねて、EKOのリーダーであった大瀧昌之さんから学びの数々を、初々しく綴ったものでした。

 音楽療法士として活動し10年の節目で、「開放弦でできる実践ギター・セラピー~かんたんギター奏で始めよう~」を出してもらいました。その名の通り、僕が実践の中で誰にでもギターを弾いてもらいたいと、編み出した変則チューニングによるギター奏の解説書でした。

 さらに10年、「発達支援のミュージッキング~児童療育・保育園・幼稚園・特別支援学校・音楽教室・音楽療法の先生方のためのガイドブック~」が世に出ました。この本は、実際のセッション活動はほぼほぼリタイアしつつ、引き継いでくださった方に僕の手法をお伝えしたいというものでした。

 その1年後「発達支援のミュージッキング」の前に原稿はほぼ出来上がっていた「うただまの経巡り~ある音楽療法士がたどった14の物語~」を出版にまでこぎつけることができました。

 

 僕は、音楽も音楽療法もきちんと習ったことはなく、断片的な知識と技術で、無手勝流でやってきました。無手勝流と言うと道場破りの剣客も連想されるので、「勝手流」というのが適切でしょう。

そんなこともあって、人から何をやってるのか尋ねられても、簡単には応えにくい。それに、その相手は、詳しい説明を聞く気持ちはそもそもないわけで、「人と音楽する仕事」くらいしか言えませんでした。  

「うただまの経巡り」では、僕が見出したオアイテのリスペクトすべきミュージシャンシップがテーマですけど、そこでも僕の奮闘も描かれてます。それでご近所とか親戚とか、「あいつ、何やっとんのかよう分からん」と感じている人にも読んでもらいたいと思っています。

「かんたんギター」や「発達支援のミュージッキング」が同業者へのアピールだとしたら、「うただまの経巡り」は誰にでも読んでいただける実践から生まれた物語になっているんじゃあないかと、まあそう受け止めてもらえることを願っているわけです。

 

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「うただま」って・・・・?

 本のタイトルの話です。

 

 「『うただま』の経巡り」の「経巡り(へめぐり)」の方は、普段あまり使われないけれど、辞書にもある普通の言葉です。

 

 「うただま」は僕の造語です。このタイトルからすぐに「言霊(ことだま)」を連想してくださった人も少なくないと思います。言霊が言葉に宿る霊だとしたら、それの音楽版もきっとあるに違いない、ということから発想し、そこからは考えて、考えて「うただま」に至りました。

 

 まず、言霊に対しての音楽の霊ですけど、言霊の音楽版なら「音霊(おとだま)」でいいんじゃないか、と思いました。そこから音なのか、音楽なのか、結構、日本語の「音楽」についていろいろ考えましたね。ですがしっかり調べるのは、不得手なので、概ねインターネットに頼った思索です。いわゆる「ググる」というやつでしょうか。

 

 でどうやら江戸時代あたりには今の音楽の意味合いは、うたまい、歌舞音曲というような言葉で表現されていたらしい。じゃあ「音楽」という言葉はなかったのか、と言えばそんなことはない。例えば、もっと古い時代から宗教的な意味合いを持った場合は「音楽」の言葉が使われていたそうなんです。

 天上の音楽という言い方とか、天女が笛を奏でる姿とか、そういうのが音楽だったんですね。

 

 一方、庶民が娯楽のためにやるようなのは、音楽じゃなくて、うたまい、歌舞音曲の方らしいんです。

 

 そんなこんなで、「うた」と言いう日本語は、まず人々が音楽することを象徴的に示すものだと、考えることにしました。

 それに歌詞のある歌を歌のじゃなくても、吹奏楽なんかで「トランペット、もっと歌え!」なんてダメ出しが、指揮者からあったりもしますよね。

 「うた」っていうのは、音楽そのものを言い表すのに、音よりは、適切だと判断したわけです。

 漢字の表記だったら、「歌」にしても「唄」にしても、歌詞のある歌の方をどうしても連想しやすいと思ったので、あいまいに、ひらなの「うた」としました。(あいまいは僕の生命線!)

 

 「うただま」の「だま」の方は、一応、本にも、どうしてこういう言い方にしたのか、書いてあります。

 

 というようなことですが、僕は学者の方がやるように、しっかり調べて考察するには、全く力不足ですので、上に書いたようなことも、どこまで信ぴょう性があるのか分かりません。ただそういう気分で生まれた言葉だという程度のことにしておいていtだければ、という話でした。

 

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「へめぐり」やって?

 「吉田さん、すごい題つけましたねえ・・・。『へめぐり』やって・・・・!」

 昔からの知り合いに、本が出版されたことを伝え、チラシをわたしたところ、そのチラシにしっかりと視線を向けて、ややあって、その人が発した言葉でした。

 

 そういえば「経巡り(へめぐり)」、「初めて聞く言葉です」と言った知人もありました。

 

 確かに、普段あんまり耳にしない言葉には違いなく、僕自身も使うのは、ほぼほぼ初めてかも知れません。テーマを決めてあちこち尋ね歩くような意味合いかと思います。例えば「城跡を経巡りする」みたいな感じです。

 

 実は、中身の原稿が固まった段階でもなかなかタイトルが決まらず、「経巡り」に至るまでは、相当の紆余曲折もありました。

 

 で、「へ、めぐり」と聞くと「屁」を連想するのも自然で、なんかおかしいですよねえ・・・。「経巡り」の漢字表記は大事です。

 

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いせ毎日の記事

いせ毎日の記事の後半部分です。

 

こういう記事をきっかけに「『うただま』の経巡り」について、知っていただけると嬉しいのですが・・・。

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「いせ毎日」に載りました

「『うただま』の経巡り」ですけど、いせ毎日で取材いただき、先日、紙面に記事として掲載されました。

 取材記者の久世さんは、前の「発達支援のミュージッキング」の時にも、丁寧に取材いただきました。

 今回も本を読んだうえでの取材でした。

 本の紹介って難しいですよねえ。久世さん自身も読者の一人ですから個人的な感想も持たれたと思います。ですが、記者の感想を述べる場ではなく、まだこの本をご存知ない方へのガイドのような役割なんでしょうねえ。

 本の内容にも少し触れながら、僕の思いのようなことにも短く触れてもらいました。

 この記事がきっかけで、また本に向かっていただく方が出てくるといいなあ、と願うばかりです。

 写真で記事が読めそうなので、後半もまた紹介します。

 

 

 

 

 

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「うただま」の経巡り

 今年の5月に「『うただま』の経巡り」という本を出版してもらいました。

 僕は、学校の教師から音楽療法士になって、実に様々な人々と、多種多様な状況下で音楽してきました。まあ、望んだことではあるのですが、こんなふうに多彩に活動を継続でき、その都度、たくさんのことを学んでこれたことは、想像以上です。

 そんなオアイテとのエピソードを、そうですね25年、いや、30年くらいを振り返って、見渡してみて、物語風に描いてみたのが、この本です。

 

 ベースになる活動の報告の要素も小さくないのですが、僕が描きたかったのは、事実の集積の奥というか、裏というのか、あるいは底とでも言えばよいのか、とにかく「目に見えて」、ということではない、オアイテとのやりとり、葛藤もあれば戸惑いもあり、そして喜びなんです。その、「人と音楽する」喜びを、この本では、全面に押し出して、書いてみました。

 

 ですので、この本を一言で言うならば、僕がオアイテと重ねた音楽の時間、そこから生まれるというか、にじみ出るというか、そういう音楽の喜びの本だというわけです。

 

 読んでいただいた方からは、様々なご感想もいただいています。

 差しさわりのない範囲で少しずつご紹介もしていこうと思います。

 

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今年の想いは、

 半年ほどブログへ投稿していなかった。年も押し迫ったので、振り返りつつ、今思うがままに書いてみる。

 

 2016年は僕のとって身近な人の死に接した年になった。1月に学生時代の友人、3月に飼い猫のまりんば、9月に母、そして10月には何かと僕の活動を後押ししてくれた友人と続いた。死んでしまった身体をまじかに見たり触れたりもした。

 もう一方では二人の孫の成長に触れる機会もあったので、生きるものの身体の死と、いのち、ということを思わずにはおれない日々を多く体験した。

 

 1月の友人の死はその頭脳に収められていた筈の知の集積を思い、口惜しさがこみ上げる。誰か彼の跡を継ぐ人はいないのか!

 猫のまりには病があって、治療が不可能なため、獣医師の口から安楽死という言葉も出た。その後、眼球の上のこぶを膨らませては爆発させることを繰り返し、比較的元気に1年以上過ごした。いよいよ元気がなくなり、2日ばかり餌も食べられなかったが、最後の日も、納屋の棚の上の寝床に収まって息を引き取ったようだ。朝、硬直した体を抱いて、どうやってここに上がったのか、と思うと涙もこみ上げた。明日も目覚めるため必死で駆け上ったのかも知れない。

 母は長く施設でお世話になった。その間、病気や骨折などもあって、いよいよ寝たきり生活かと何度も覚悟したが、その都度、それなりに復活した。最後は夕食まではさほどのことなく、その後あっという間に亡くなった。

 その中陰のさなか、思いもかけぬ友人の訃報が舞い込んだ。気持ちの整理もつかぬまま、葬儀に列席するために会場に急いだ。途中腹が減って、ラーメン屋に入る。彼はもう腹もすかないのだ、と思うとこのラーメンは僕が今生きているしるしだとさえ感じた。普段の元気そのもの姿しか思い浮かばないので、棺の中の彼は初めて小さく思えた。

 

 僕も歳からすれば何があってもおかしくない。幸い、何ということなく日々を過ごせているが、起きて、食べて、仕事をして、寝る、そんなことの繰り返しが、要は生きている姿なんだと、言っても言わなくてもいいようなことを、改めて言ってみたくなる。

 

 仕事の整理は少しずつ進んでいて、幸運にも自分の思いをある程度受け止めて音楽活動を引き継いでくださる方がいる。ありがたい。

 その一方で新たな仕事にも携わり始めた。就労移行支援事業所ミューズラボ伊勢のスタッフとして週に2日ばかり勤めるのである。僕はここで、信頼にたるスタッフと協働して音楽活動を進めている。迷いつつ、ともに歩むスタイルがここのベースになりつつあり、共に活動することに喜びを覚える。

 また音楽を通して様々な若い世代の人と交歓する機会にも恵まれ続けている。

 

 いくつかこなさないといけない仕事もある。まあぼちぼちと・・・。

就労移行支援事業所ミューズラボ伊勢

 就労移行支援事業所ミューズラボ伊勢が開設された。これは村井楽器が音楽療法事業を模索実践する中で、初めて支援費を前提に取り組むことになった福祉事業所である。僕は、ここでパート勤務で、音楽療法士兼生活支援のスタッフとして、音楽を通した利用者さんのアセスメントや具体的な支援を担当する。

 7月オープンを目指し6月中頃にはスタッフが具体的な準備作業を開始し、無事7月1日開所。7月29日は、関係者を招いて盛大なオープンセレモニーも行われた。

 

 音楽による就労支援というのもすぐには結び付きにくい印象があるかも知れないが、実際に社会に出て働く、ということの前提には、履歴書が書けるとか挨拶ができて世間一般の話題で話ができる、などといった実際的な技能よりはるかに根本的なことがある。つまり、心が定まって日々落ち着いて過ごせるということである。具体的には、生活のリズムが整い、安定的な居場所での様々な行いを通しての人とのかかわりが自然に行える、そういうことがなければならない。こうした思いからスタッフ間では、ここでの活動の基本的な方向性として、いわゆる最終目標に向けてのビジネススキル(具体的な仕事としての目的を達成するための技能)、その前提のコミュニケーションスキル(人と自然にかかわる技能)、そしてさらにその前提に自己表現と他者との共有体験、ということを定めた。

 自己表現、他者との共有、コミュニケーションとなれば、まさに音楽療法の出番なのである。

 

 スタッフはいずれも福祉素人だが、素人ゆえの熱意のこもった活動によって、わずか1か月の間に多くの体験利用者を迎えることでき、うち3名の方は実際に利用者になるための手続きが進行中である。

 そして、注目すべきは体験希望のほとんどの方が「音楽がしたい」という申し出であったのである。

 

 実はこのミューズラボ伊勢のいわゆる「売り」は、音楽と、弁当がただ、ということである。弁当に比べれば、音楽の魅力は大したものにならないか、と思っていただが、今のところ、音楽への要望が具体的に強い、ということが分かった。

 音楽療法士として、本当にうれしいし、お一人お一人の利用者さんのお気持ちに添う音楽というものを具体的に作っていかなければならない責務も重く受け止めている。

 一通りではなく、多種多様、一直線ではなくジグザグと、明確さよりは曖昧模糊ととした音楽の共有、そういう歩みがここから始まる期待感が高まっている。音楽は本来誰でも演じる素人の余芸であり、そういう感じが、ここでは実現されるような予感もあって、とてもうれしいのである。

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字の仕事

 昨日は、僕が住んでいる明和町の新茶屋という字の役員が十数人出て、草刈機を担いで排水路の周辺で生い茂る木や草を刈る作業をしました。

 なんと僕は、今年、思いもかけずこの字の会計という重職に選ばれてしまって、訳も分からずおたおたとしているのです。

 この日はもちろんその草刈り作業も、大してお役に立っていないと思いつつも汗かいて一所懸命にやりました。だが僕の仕事はそれだけではない、みなさんにお茶を配らなければならない。自販機でお茶を買うタイミング、配るタイミング、全然わかりませんから、とても緊張して、結局は何ということもなく終わるのですが、まあまあ大変でした。これを大排水ざらえと言いますが、来週は字の各家から一人ずつの出会いで、田んぼの排水ざらえというのを行います。来週の準備のために、三役(もちろん僕も!)や一部の有志が、草刈機の刃を取り換えて、燃料を補充します。僕はこの日のためのお茶を用意しなければなりません。まあ、これは公民館の冷蔵庫に入れておけばよいとのことですので、簡単です。

 さて大排水ざらえの仕事は、ようやくこれで終わりかと思ったら、2~3人の方が、「今からやろや」とか「雨降ってきたでやめや」とか話しているのです。僕には何のことかもよくわからず、話の経緯を見守っていますと、これから墓へ行くということで、みなさん合意が成立しました。僕は、何も聞かされてはいなかったのですが、「やっぱ、いっといた方がいいかな」という判断でついて行きました。

 墓はやはり各戸の出合いで掃除をする日があるのですが、その前に周囲の槙を低く揃えておこうということだったです。2人がチェーンソーで槙の上の方を高さをそろえてきり、別の一人は空き地の草刈りを始めたのでした。僕は何をしていいかわからずぼやっとしておりましたが、そのうち切り落とした槙の枝や葉っぱを片づけを命じられました。

 これの槙の頭揃えの作業が、いつどのようなタイミングで終わるのか分からず、体の疲れもさることながら、気持ちも落ち着きませんでした。ですが、あまお昼の12時ごろには、何となく終わりになり、家まで車で送ってもらったのでした。

 普段暮らしているだけだと気の付かないようなところで、字の役員の方々がこれまでやってきたこと、それを踏襲し、またその時々の状況に合わせてこんな奉仕活動を毎年やってもらってたんだなあ、としみじみと思いました。

 僕は作業での器用さも体力にも全く自信なく、例えば被災地へのボランティアなども気持ちがあっても踏み出せません。ですが、このような作業がいやというわけではありません。ただ、自分で先の読めない作業で過ごす時間はとてもしんどいとも思いました。

 

 

 

 

 

 

 

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4月は作文月間でした

 昨夜来の雨と風で洗われたかのように、この上ない晴天で、時折吹く風も心地よい。ゴールデンウィークは、畑(何かを栽培しているわけではない、草だらけの土地)や庭先の草刈りなど、普段なかなか手が付けられない作業や部屋の片づけをのんびりと行うようになって、何年かになる。もはや恒例と言っていいだろう。

 

 そんな中、昨日は若い人と庭先でバーベキューを楽しんだ。火を起こし、肉や野菜を焼きながら頬張る、おいしいし、楽しい。せっかくだから、こんなことも恒例になると嬉しいのだが・・・・。

 

 4月はいくつか実践をまとめる論文を書いた。もうちょっと時間がかかるかとも思っていたのだが、比較的スムーズにはかどり、締め切りを前に終えることができた。

 文章を書くのは嫌いではない。それどころか、頼まれもしない文章をあれこれ書かずにはおれない性分なのだ。そもそも、誰かと話をするのとは違って、本を読んだり、文章を書いたりするのは孤独な作業のはずである。しかし僕は自分の書きたい思いと仕上がりの文章の間のギャップが気になって、不安になる。幸い、途中の文章を読んで意見をくれる友人がいたりして、これはもうありがたいの一語である。

 で、今回の作文でも数人の人にご厄介をかけた。まずは僕のことを知る人が文を読んで納得できるようなものにしなければ、始まらないとも思うのだ。貴重なご意見で励まされ、考え直し、文章に修正を加えていく。個人であって、必ずしも個人だけでない作業ができるので、これは嬉しい。加えて締め切りをにらみ、人の意見を聞くためには、早いとこ自分の作文ができていなければならない。ということで、いやでも作業が進むというわけだ。

 

 そんな作業をいったん終えて見上げる快晴は心地よいが、つくづく思うのは書こうとすること、書き連ねながらあれこれ浮かぶ諸々、それらは絶えず揺れ動くもので、それが一つの方向性をもって収斂していくプロセスこそが、僕にとって大切なのだ、とつくづくに思う。

 自分の気持ちや心が定まらない限り、人に通じる文章にはならないのだ。ようようにして、自分の書きたいことを書く、心の定点のようなものが見え始めた気がしてる。

 まあ、一仕事終えたところだからそう感じたとして、次の作文にかかれば、またゆらゆらと揺れ動くことは間違いない。

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新年度になりました

 新年度に入ってから早くも2週間が過ぎました。月に1回くらいは、ブログで出来事をまとめておこうと思ったものですが、なかなかそんなふうには・・・・。

 

 2016年になって、僕にとって比較的重要なことが折り重なって続きました。

 イベント名だけでも書いておこうと思います。

1月22日  

 大学時代の友人の告別式参加で上京。年賀状は元気でしたのに突然でした。彼の駆使する言葉や知識は、半端なくものすごいものでしたし、それを継承する人が出てきてもらいたい。

 

1月24日

 憧れのミュージシャンの新倉タケオさんに伊勢のステージに乗ってもらい、部分的に即興的な演奏をさせてもらいました。嬉しかったし、面白かった。

  タケオさんは、8月にはジャズの山下洋輔さんとジョイント。見に行きたいと思ってます。

 

1月31日

 三重大の根津先生にスーパービジョンをお願いして、学校の先生と楽器店の講師が実践発表する勉強会をしました。僕は、教育とか福祉とか音楽とかのジャンルを超えて、お互いがお互いをリスペクトしながら学び合う場を作っていきたいのです。

 

2月7日

 わがスタジオ&ゲストハウスに、福島と愛知から10名を超える専門家の訪問を受けました。僕のやること、やってきたことに真剣に学びのまなざしを向けていただき、びっくりやら嬉しいやら・・・。

 

2月21日

 ライブスペースin明和。毎月やってるライブスペースの勢の!の明和バージョン。明和でも2回目です。僕が思いついたことを仲間と進めていくうちに、こうして別の人が中心になってイベントをやってくださる。しかもそうすることで、目指していた真髄のようなことも見えてきた気がしてます。

 

3月7日8日9日

 福島県に出かけました。災害復旧の見通しさえ立たない、浜通りを1日かけて見て回ったり(通行止めがいっぱい)、郡山のフォーク喫茶を訪ねたり、大学でちょっとした講義をさせてもらったりしました。帰りがけ宇都宮に立ち寄り、遠山文吉先生にもお会いしました。

 余りに濃密な時間でしたので、まだ僕の中でこなれてません。

 

3月20日

 奈良市春咲きコンサート。エールの参加も3回目。進化し続けるエールに場をいただけるありがたさに感謝。でこの先どうなるのか・・・・。

 

 これに日常業務かそれに近い単発のイベント的な活動もあったりして、ゆっくり振り返ることもままなりません。ですが、振り返りつつ一歩前に進むのは、僕にとっては生命線。4月に入ってからは、一所懸命に論文を書いてます。

 論文書きといえば、ふつう一人の作業なんだけど、おつきあくださる方があって、話をしたり、メールのやり取りをしたりで、少しずつ出来上がっていってます。締め切りがないと仕上がらないですねえ・・・。

 

 こんなふうで、張り合いがあって、発見もあって、人との交流もあって、言うことなしの幸せな日々ですけど、さすがにお疲れ気味ではあります。 

 

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いつの間にか・・・

 大変忙しい、というわけではないけれど、それなりに日々いろいろなことに遭遇し、頑張って仕事をこなし、面白いことに出会い、人との出会いに喜びを覚える毎日です。

 いわゆるイベントごとと日常的な音楽活動との切れ目のないシークエンス、ぼんやりしていると、ただ過ぎ去ってしまうだけのことですが、振り返りつつ、考え、また試してみることで、生きている充実感も味わえます。それが僕にとってはいわゆる研究発表という形で実践を短い文にまとめる作業です。

 現在大胆にも学術会議への応募で3つないし4つのテーマで考え、書いて、人に相談し、また書くという作業をしています。これが僕にとって何よりの振り返りなのです。

 

 ありがたい、本当にありがたいことに、こうした僕のまことに個人的で独りよがりともいえる物言いを良しとして、認めてくださる方が現れ始めました。ここ1~2年のことのように感じます。

 追い風を力に頑張ろうとも思うし、調子に乗ってはいけないとも思います。

 

 身の丈は自分で決めてはいけないと言われたこともありますけど、あくまで等身大の自分を表現していこうというのは、いつでも結構難しいですねえ・・・。

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1月が終わって・・・・

 年末の娘家族とにぎやかに過ごした後の実に穏やかな、ちょっと気味悪いくらいの好天が続いたお正月でした。

 その後、僕は初めてスマホを持つようになり、障害負う幼い子どもやおとなの方とのグループの音楽活動をリードしたりしました。普段とはちょっと違うけれどまあ想定内の日々でした。

 

 突然、大学で同期であった友人の訃報が舞い込みました。卒業の年に知り合ったこの人は、学生の頃から成熟していて、ずば抜けて頭の良い人でした。僕は彼といっぱいいっぱい話をし、文通し、僕がフランス語を多少なりともしゃべったり、物を考える、思索する、ということの源は、彼との対話なしには考えられないような人です。お互いの結婚式にも友人としてただ一人参列しあった間柄ですが、友人というには恐れ多く40数年にわたる大師匠でした。筋の通った揺るぎのない人で、情緒に流れる僕は絶えずたしなめられ、批判され、緊張もしておりました。ですが僕のもっともコアな部分で大きな共感、支えもあったのです。何を行ってみせても言葉にしてみても、僕の芯が瞬時に分かる人でした。

 棺の中に彼を見るのは何とも不思議な気分で、いまだに心が定まりません。

 

 その直後、あこがれの即興ミュージシャン新倉壮朗さんがやってきて、僕の仲間ご一緒して素敵な即興ライブコンサートを行いました。僕の願う生きた音楽の活力がそこで曖昧ながら形のようなものを見せらたこと、新倉さんに感謝し、仲間に感謝しています。

 

 そしてこれはつい先日ですが、学校の先生や児童療育、そしてピアノ講師や音楽療法士がそれぞれに自らの実践を話題として学びあう研修会がありました。未熟であってもいや未熟であったればこそ、こうした面倒な作業は重要で、そのことを参加者がほぼ全員共感していただけたこと、うれしい限りです。

 

 僕は何かあるたびに揺さぶられ、その余韻でもって、次へ踏み出し、しかもいろいろ人を巻き込んで、自分の思いを形にする作業を重ねてきたと思います。迷惑、面倒をいとわず、付き合ってくれる人々に申し訳なくも、「どうだ、よかっただろう」みたいな気持ちもあるのです。

 

 1月はことのほか、揺れ幅の大きい、言葉では収めようのない日々でした。

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グループセッションの空気感

 1月12日(火)長島ミュージックサークルという知的障害のある30歳代から50歳代の10人くらいの成人のセッションを行った。基本月1回で、もう10年近いお付き合いである。ここ数年は年間8回くらいの取り組みで、この日も2か月ぶりであった。

 思い思いに楽器を手にして、好きに鳴らしている風なのだが、リーダーを務める僕のことは自然に意識し、リズムも合わせてくるし、何より僕と一緒に間、音のない時を作る。その時、僕は一番一人一人の集中を感じ、次に出る音を待つ。そのグループでしか味わえないその時だけの素晴らしい音楽である。それをメンバーも味わっている、と感じられるのである。

 

 1月14日(木)は、児童療育の施設で3歳くらいの重度の障害を負った10数名の子どもとのセッションであった。2回目であるが、半数は僕とやるのは初めてである。

 前回は子どもたちの意識や活動の方向性をこちらに向けて欲しいという願いで、一人ひとりに慎重なアクセスをした。

 ところが、2回目のこの日は、いきなり一人一人が僕に向かってくる感じを受け止められた。一人ひとりに手に合いそうな楽器を配り、力強い反応もたくさん得られた。そうこうするうちに僕が音を出すのをやめたりすると、見事に音のない空白も生まれた。少し大きな太鼓を出して、一人ひとり前に出て叩いてもらう、という活動もした。音や音楽によらない、ある種のルールを入れたわけである。もちろんそこの先生方や保護者のサポートがあってのことだが、歩けない子ははいはいで出て来るし、太鼓のところではなく、まず道具のたくさん置いてあるスペースまで行って、大太鼓用の大きなマレットを取り出したり、僕の差し出す太鼓ではなく、ギターにしきりに触り来たり、それこそ自分の気持ちを前に出してやってきてくれた。

 こうなると何をやっても楽しいのである。もともと幼い子どもはエネルギーに満ち、それがこのような雰囲気で発揮されるのは、まさに音楽する喜びそのものである。

 

 同じ14日(木)午後は、知的しょうがいのある人が集う作業所に出かけた。昨年の大成功に味をしめ、今年も2月のライブに出演しようと、何とか形を作ろうというわけである。ここも昨年ライブ前の3回のお手合わせの時は、本当にへとへとになって、とりあえず僕の方をめがけて音を出してもらうことにエネルギーを注いだ。それがもうずいぶんと自然に音の重なりが、ある種の方向性を感じられるようになってきたのである。

 今年はロックミュージシャンの久田さんを駆り出して、何とかロックテイストの音楽をやってみようと考えた。久田さんのアイディアで、「ドン、チャン、ドン、チャン、・・・」みたいな単純なリズムの繰り返しの中で、エレキを鳴らしてもらうことになり、その通りのことをやってみた。音は出さないが、飛び上がらんばかりに喜ぶ人もあれば、体を揺らしてリズムを割ときっちり取ってくる人もいて、雑然と鳴っていた音に楽しいムードが漂い始めた。面白い!僕の願いが何とか形になりそうである。

 

 場所もメンバーも事情もやっていることも、全然違う3つのグループセッションを、比較的短期間で味わい、そのグループが僕と混じって一人ひとり自由なことをできる空気感を生み出しているような気がした。

 

 音楽療法で、何をどうこうするというよりは、バックグラウンドになる空気、空気感こそ、活動の源なんだなあ・・・・、としみじみを思うのです。

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2016年の幕開け!

 昨年12月は、普段の仕事のほか、イベントやライブ出演もあって、なんとなくの緊張や準備のばたばたで、師も走るあわただしさを実感して年末に突入した。

 幼稚園の冬休みでわが家へやってきてくれた娘とその2人の子ども。僕はじいじ君らしく、子どもたちの言いなりになりそうでならない距離感を保ちながら、しっかりと遊べて幸せに感じた。

 

 さて、子どもたちの去ったわが家で新年を迎え、あまりの穏やかな好天にちょっとびっくりしている。昨日などは、まことに気持の良いお天気に、冬であることをすっかり忘れ、これでいいだろうか、とふと気味悪い気さえ起った。

 

 正月が過ぎ、少し遅れて始動した1月は、後半に僕にとって2つの大きなイベントが控えている。

 その一つが新倉タケオさんを迎えての即興ライブコンサートである。僕は音楽療法のセッションの中で即興的なやり取りを軸に進めてきた。そんな即興音楽がステージで果たしてどのようなことになり、それをお客様がどのように受け止めてくださるのか、コンテストでの評価を待つような気分でさえある。またそれ以上に生で新倉さんをぜひ見てほしい。音楽する者にとって、ものすごい刺激になることは間違いないだろう。

 

 もう一つは、いろいろな学校や楽器店の音楽教室で行われる音楽活動について、話題提供をしていただいて、みんなで考えようという勉強会である。

 授業やレッスン、またセッションなどと呼び名も目的も活動の仕方も異なるけれども、人とする音楽という点で、大事なことに変わりがない、というのが僕の思いで、そんな風なことが感じれるのではないかと、期待感でいっぱいなのである。スーパーバイザーとして三重大学教授の根津知佳子先生をお越しいただく。根津先生は、複雑なことの絡んだ授業やセッションで悩む先生たちの思いを快刀乱麻に切って見せる名人級の講師である。楽しみなのだが、その前に十分に参加者に集まっていただけるものなのか、不安も大きいのである。

 

 今月も自分のできることを、できるように精一杯やって過ごしていこうと思う。まあ、なるようにしかならないのは、年が変わってもかわらないであろう。

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カオルさんとようちゃん との出会い(再会)

 僕は、音楽療法というフィールドに軸足を置いて音楽活動を生業としている。もとは学校の先生で、勤務する玉城中学校で出会った2人との音楽に秀でた子どもとの出会いが今の道を歩ませたともいえる。

 1990年ごろ、障がい児学級で出会った「カオルさん」と音楽をやりまくり、その時は小学生であった「ようちゃん」とも出会い、のちに中学校では彼を担任をした。僕らのエポックメーキングな出来事といえば「なかよしバンドニューイヤーコンサート92」と「EKOライブインいせ(94年)」である。当時のエキサイトぶりは「僕らはみんなミュージシャン(音楽之友社)」という本にまでなった。絶版だがアマゾンだと古本を100円以下でで買えるので、ぜひお求めいただきたい。

 

 で、その二人も今は若者と呼べる年齢を過ぎた。ようちゃんのほうは今もそれなりにお付き合いが続いているが、カオルさんとは長い間つながりも途絶えていた。

 

 その二人、実はほかの重要な仲間とも、一堂に会する機会に恵まれたのである。僕らが一緒にバンドを目指して活動していたのは、1993年ごろから95ごろであっと思うので、20年ぶりのことである。期せずして、顔を合わせることになったのは、先月行われた「ライブスペース勢の!イン玉城」というコンサートである。主催、運営そして会場と、まさに玉城、という地元であったればこそ果たせた出会いであった。地元のコンサートは本当にいいなあ、と思う。

 「太鼓たたいて~   人様寄せてよな~   俺もあいた~い   人がいるよ~   (八丈太鼓ばやし)」

 

 ようちゃんは、僕と二人でステージに立った。まるで15年も前の時のように、彼の作詞したオリジナル曲を二人の掛け合いで披露した。

 そこのオーディエンスの一人としてカオルさんがお父さんに連れてきてもらっていたのである。

 

 子どもだった彼らと子どもっぽい先生の僕は、思いつくことをやりながら、周りの音楽の先生やミュージシャンさながらの国語の先生の共感が得られたことを自信にして、様々なステージを経験し、お集まりくださったお客様の感動に触れることができたのである。僕は彼らの天才を見出した気でいたのであった。

 

 その後、僕は順風満帆というわけでは決してないが、文字通りいろいろな人と音楽して、それを肥やしに、活動を広げるような音楽療法士人生を歩んできた。もちろん現在進行形である。一方二人は、子どもからおとなになる過程で、様々な困難を抱えたことと思う。

 今の彼らを見て、当時の勢いを思い浮かべれば、懐かしもさることながら、さみしさ、つらさ、くやしさもこみ上げる。

 

 しかし、もともと彼らは天才でも何でもなかったのかも知れないし、おばさん、おじさんとなった彼らが子どもの時のような輝きを発することがなかったとしても、何の不思議もないだろう。それでも、お互いがある時期一緒に音楽することで、自分に身の内にも、そして何より僕らの周りの人々に、強い感動と絆を生み出した事実も鮮明に記憶に残っている。それが僕をここまで歩ませたし、きっと二人にも何がしかが住み着いてもいるだろう、と思わずにはいられない。

 

 「じいじくん」の僕は「カオルさん」や「ようちゃん」と時々音楽のお付き合いを始めようかと思う。「昔の名前で出ています」みたいな話である。

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11月も半ばが過ぎ・・・

 新倉タケオさんをお迎えして、明和音楽祭の野外ステージに「エール」のみんなと演奏をして始まった11月も下旬にさしかかる。


 2つのことを書いておこう。


 一つは、おおぞら児童園を訪れて、4~5歳の障がいのある子どもたち9人と音楽をしたこと。人の一生で一番輝き美しい時期ではなかろうか、そう思うようになって久しい。子どもたちは見慣れぬ爺さんに警戒しながらも、繰り出す道具に少しずつ(このちょっとずつがステキなのだ)触るようになり、試すように音を出してくる。その手応えに気持ちを傾けているせいでもあろうか、子どもたちは僕への警戒心も緩み、この爺さんに目を向け微笑みや笑顔をくれるようになる。そのうちに思い思いの、それなりにしっかりした音がその場を覆う。

 本年度中に、この子たちと、あと2回、音楽する機会を与えられていて僕は本当にうれしい。


 もう一つ。昨日、かつての音楽デュオの相方ようちゃんと久々に2人だけのセッションをした。次の日曜日、玉城町で催される「ライブスペース勢の! in 玉城」のステージに乗ることになっていて、その打ち合わせのための手合せである。

 連れてきてくれたお母さんによると、「今日は調子が悪い」とのことであった。だが慣れ親しんだレパートリーを太鼓やカズー、そして僕のギターでやっていくうちに、ようちゃんは元気な姿を取り戻して、演奏に興じた。

 ようちゃんは、小学校の頃は天才パーカッショニストであった。中学になると担任の僕に次々詞を書いて見せ、僕もせっせとメロディをつけ一緒に歌いまくった。そのうちのいくつかがCDにもなったし、ふたりしてあちこち出かけ、大勢の前でやりまくったものである。

 ちょうど、今の新倉タケオさんがやっているように、その頃は僕はようちゃんと音楽してやっていけるんじゃあないかと夢見てもいた。

 ところが、成人を前にようちゃんは急激に落ち込んで、ひきこもったりもするようになった。

 

 その後も紆余曲折はありながら、緩やかな関係は保たれていたが、ようちゃんは僕のデュオの相方ではなく、音楽療法グループのメンバーの一員であった。

 一時、セッション中も床に寝転んだり、そもそも外へ出られなかったこともあったことからみれば、まあ良い状態とは言えるものの、かつての天才パフォーマーとしては、片鱗も見られないことが多い。

 僕は、情けなくもあり、一緒に情熱を傾けてやってきたことにも、空しさを感じるようになった。もちろん親御さんの思いに比べれば、どうということない程度なのだが・・・。

 そのようちゃんが、安定的に良い状態になってきたのが一昨年あるライブで出演を呼びかけた時からである。それからというものなるべく、かつての様に人前で演奏する機会を作るように努めてきた。


 往時の勢いから見れば、という、ちょっとさみしい気持ちもないではないが、やりまくってきたからこそ、今も一緒にステージ立てる有難さを思えば、つい涙もこみあげる。

 

 人はいろんな風に、いろんな人と、いろんなところで音楽して、自分と周りの人と通い合わせ、生きていくものなのだろう。おっさんになりつつあるようちゃんと爺さんの僕がやるのを見てくれる人があることを、心から感謝したい。

 本番まであと4日。頑張ります。

「おもしろい」が面白い

 「おもしろい」について、先日久々に図書館を訪れ、三省堂国語大辞典なるものを見てみた。様々な説明の最後に語源についても書いてある。


 たくさんの説明があるが、自分の気に入ったものだけ挙げてみる。

 まず、「面(オモ)白(しろ)」で、目の前がパッと明るくなる感じのこと。ほかに「思(オモ)領外(シルオ)」というのがあって、これもおもしろい。つまり、自分が思っていることの領域外のことがでてくるというのであろう。また「面(オモ)知(しるし)」というのがあって、これは顔を知っているというほかに、なじみ深い、懐かしいという意味もあるというのだ。


 まったく節操のない、また学問的でもない、自分の好みのものだけ拾い集めるのだが、


 おもしろいは、ある文脈の中で、突然それとはちょっと外れたり(領域外)するのだが、それは感覚的には前からよく知っているような、懐かしい気持ちにもなるような事柄で、目の前がパッと明るくなることなのである。

 

 人は自分の「おもしろい」を探して、何かをするのだが、その「おもしろい」が、ほかの人と共有されると、それはもう、めっちゃおもしろいだろう。


 さらに強引に自分の音楽活動に引き込んでいえば、そのおもしろい瞬間(とき)を発見し、経験していくことは、その人の日常を何がしかポジティブに支えていくに違いない。それが音楽療法、そしてそんな時間(とき)を一緒に過ごそうというのが、音楽療法士、な~んちゃって・・・・。


 実は、昨日のわくわく音楽教室でのグループでの即興演奏、おもしろかったんです。

 

 「おもしろい」がおもしろいので、これからもう少し考え続けてみようと思います。

 

 おもしろい瞬間(とき)は、どんな時間(とき)の中から、どんなふうに生まれるんのか。それが分からないからおもしろいんだけど、一応そのための打つ手は、いろいろある気がする。何せ、音楽療法士なので・・・・。


 一人おもしろがって書いてますけど、読む人はおもしろくもなんともないんだろうなあ・・・・。

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面白い、ということ

 先般、北山修の本から「二者間の二重の交流」について書いたが、もう一つ僕が興味をひかれたのが「面白い」の語源に触れた部分である。


 面白いというは、昔火を囲んで何人かが話しに興じていて、面白い話だと、顔があがり、ぱっと明るくなる、つまり面(顔のことか)が白くなる、というのである。

 ネットの語源辞典のようなもので確かめると、やはりこの話が出ていて、だが後世作られた俗説、とのことである。

 事の真偽は、この際どうでもよくて、面白いという現象に僕は非常に心ひかれた。


 音楽を通して、非日常の感覚を味わうことはたくさんあって、音楽のフィールドではこうした音楽の力について多様な議論がある。例えば「異界」としか言いようのない世界が現出したり、また作曲家が普段はこんなフレーズ思いつくはずもないんだけどその時「降りてきた」という言い方をしたり、何となく神がかり的なこともよく言われる。

 自分の感覚として、音楽世界におけるこのような「異界」とか「降りてくる」という言い方も十分に想像のつくことである。で、こう言ってよければ、僕が音楽療法として行う日々のセッションでもこれと似た状況は体験していると思うのである。

 とはいうものの、僕がオアイテとする音楽で「異界」が生じたり、見えたりしたかと言えば、そんなにたいそうな表現には当たらない。


 そこで冒頭の「面白い」である。「異界」から急に話のトーンがダウンしたと思われるかも知れないが、案外そうではないと思う。

 「面白い」というのはどこか、それこそ金庫にしまってあったり、誰か特別な人が体に秘めているものでもない。ある状況で、あるタイミングで、ある言葉(音楽も)が、ある強さ(あるいは弱さ)で発せられた時、その瞬間、それを受け止める人の心が共振して、ぱっと顔があがって明るくなる、そういう現象なのである。

 そこには、背景となる、いわば坦々と過ぎる状況があって、それをちょっとずらしたり、あるいは瞬間的に猛烈に破ったりして、それを受け止めた人が、言いようのないものを発見した時、初めて「面白い」が成立するのである。

 このような相互交流なしには、「面白い」は絶対成り立たない。


 「面白い」を追求するのは、音楽よりむしろ落語などの話芸あるいはコントなどのお笑い、である。

 プロの芸人の作り出した瞬間の面白さを、そこに居合わせなかった人に伝えるのは至難の業で、面白がった人の話を聞かされても、たいてい面白くない。つまり異なった状況では、面白さはすでに消えていて、もともとそのこと自体が面白いわけではないことが多いのであろう。


 ここから見えるのは、まず、状況つまりはコンテクストがしっかり共有されて、つまりは複数の人がそこそこ同じ時間を共有していること、その上で、行く筋をずらしたり(自然にずれたり)、大なり小なり爆発があったり、でもそれは目に見えるものではないので(実際のパフォーマンスを見ていたとしても)、それを発見する、ということである。

 状況、ずれ、発見、これが「面白い」の要件だとして、そういう音楽が展開されれれば、きっとその時間は「面白い」に違いない。

 このような時間の体験、若干の非日常、少し心が上気し、日常への力になるかも知れない。音楽療法がそうであれば、本当に素晴らしい。


 ところで、僕がそんなこととも露思わず、あれこれ模索しながらも目指していたのは、単純にオアイテと面白い時間を作ることだったのかも知れません。そうだといいけど・・・・。

過ぎ行く10月

 大晦日でもないが、この10月を振り返ると、なかなかにいろいろとあった。9月末に痛み出した腰痛は、10年ぶりくらいの重症で容易に立ち上がれず、トイレに行くのにも杖をついた。1時間起きていればまた横になるという半病人とまではいかないものの、3分の1病人くらいの生活を2日ばかり経験した。まる1日の仕事をキャンセルもしたが、これはフリーになって16年間、初めてのことである。

 とまあ、大げさな書き出しだになってしまったが、恐る恐るの仕事から10月6日には完全復活をした。カイロプラクティックなる施療にも通い始めた。これで血圧点検の内科、歯科、とまあ、通院のためのカードで財布がかさばってきた。なるほど、老齢年金の支給も始まるなど、おじいさんらいし暮らしぶりである。

 そうこうするうちにも、普段のセッションを行い、村井楽器のピアノ講師の先生方に音楽療法プロジェクトで進んでいる現在を紹介するプレゼンテーションをしたり、本年度も取り組まれることになった「ライブスペース勢の!in明和」の会議などもあった。僕の願いが一つ一つ形に成っていっているのである。

 

 そこへ、10月17日、福島大学の杉田先生、名古屋芸大の伊藤先生がわがゲストハウスを訪ねてくださった。二人はご夫婦で、賢く、かわいい上品な男の子を伴って、かねてよりの約束が果たされたのである。

 遊びに来ていただいたというよりは、お二人がほかの仲間の先生ともども、コミュニティで実践される音楽活動の調査ということで、僕のこれまでのことに関心を持っていただいたというわけで、光栄の至りというべきである。

 僕が感じ、行い、振り返りまた考え、そして周りに様々に揺さぶられつつ過ごしてきた、おそらく20数年の軌跡が、大雑把に話題になり、至福の時間が過ぎていく。僕にとって幸せなおしゃべりの時間が、次へのステップにつながる何かが生み出される、そういうことって、本当にあるような気がしたのは、杉田先生たちの誠実で聡明な受け止めが実感されたからに他ならない。

 そして、18日は、72回目のライブスペース勢の!、杉田ファミリーはこの取り組みを会場準備から立ち会ってくださり、リハーサル、本番のパフォーマンスを大いに楽しみ、この面白取り組みを大きく評価して帰っていかれた。

 

 10月も下旬に入る。僕が関わる複数のバンドのステージのためのあれこれもある。また現在企画中の講演会などのイベントの準備も今が正念場。

 

 そして、10月31日にはあの新倉タケオさんが、再びやってくる!!

エールと11月1日の明和音楽祭で一緒にステージに乗ってくださるのである。

 

 財布に診察券抱えたおじいさんも、日々あんまりにも充実で、幸せです、というほかない。

 

 ありがとうございます。

「二者間内交流」「二者間外交流」

 しばらく前に、友人から「この本はきっと喜ぶだろう」と1冊の本を紹介されました。北山修の「最後の授業」で、彼の九州大学でのいわゆる最終講義が活字になったものです。

 案の定大喜びで、一気に読みました。


 内容的にはほかの本で知っていたこともあるのですが、改めて心に留まったのが「二者間内交流」と「二者間外交流」で、まあこれは北山先生(僕は先生と呼ぶほどの近しい間柄ではありませんけど)の言葉遣いだと思います。

 1枚の浮世絵から先生の説明が始まります。赤ん坊がお母さんに抱かれ、お母さんは我が子を片手に抱いて、もう片一方の手で棒に括りつけたお魚の絵をひらひらさせながら、「お魚(トト)よ」とあやしている図です。2人は身を一つにして、微笑みながら、オトトとを見ているわけです。この二人の視線は、これまた北山先生が共視と呼ぶ現象です。

 赤ん坊が全く安心して、身を委ねて一心に(全力でと言ってもよいでしょう)オトトを目で見て「オトト」という発音を耳で聞き、言葉を覚えていくわけです。

 母親が自分の身に備わった言葉、もっと広くは文化そのものがこうして我が子に伝えられる、体験的な学習が「二者間外交流」ですが、その時同時に「あれなんだろう・・・」「おもしろそう・・・」と赤子が興味をそそられるのは、ふたりの間に安心の交流があるからで、ここが「二者間内交流」というわけでしょう。


 別の言い方では、僕らは、先生から勉強を教わり、言葉や数、その他の様々な事柄を覚えつつ、人生というか、人として、あるいは日本人として生きる姿も学んでいくわけです。二つの交流は同時に起こっている(これ、僕の説明で、北山先生が言ってるわけじゃありません)。


 二者間外交流の方は、それこそテストでもすれば、うまくいっていたかどうか、検証もできる。あるいは、もっとうまい方法で教える方法があるかも知れない。ですが、二者間内交流は、簡単には言語化もできないし、目に見えるものでは決してありません。


 こう考えていくと、僕の生業である「音楽療法と」いわゆる「音楽教育」との共通項とニュアンスの違いが見えてきます。

 両方とも音楽を通して(聴いたり、歌ったり、演奏したり、あるいは即興や作曲もしたりして)、音楽の技術や知識を学ぶプロセスです。同時に、このプロセスで、先生に対して尊敬の念をもったり、あこがれたり、またこれまでできなかったことができるようになって自信を持ったりして、人として成長していくわけです。

 で、僕らの音楽療法を念頭に置けば、当然何よりも二者間内交流に重きを置く。二者間外交流で学んだり練習するのはあくまでも手段だと言ってよいでしょう。

 一方、音楽の先生は違うんじゃあないでしょうか。当然二者間の交流を念頭に個別に対応しながらも、結果として知識や技術を身につけさせなければならない。つまりは文化の担い手を養成する面が強いのではないでしょうか。


 僕は、違いは違いとして、両者の共通の部分で、もっと学校や音楽教室の先生と音楽療法士が交流するといいとかねがね考えていて、この「二者間内」「二者間外」の二つの交流の北山先生の説明は、みんなに分かりやすいんじゃないかと思った次第です。


 実はこの本で、もう一つ浮かんだアイディアがあるんですけど、それは改めて、別に書くことにします。

音楽療法の音楽と議論

 僕は1990年頃、中学校の教員として障がいのある子どもとの音楽活動に精を出し、手ごたえ得て、その後95年頃からは、大して頼まれたわけでもないので、わざわざ学校の外にまで出て行って、いろんな人と音楽をしてきた。もちろん、オアイテは、何がしか障がいだとか問題とかを抱えている人たちである。

 確かに勉強や仕事、あるいは日常生活ではその障がいが頭をもたげる。だが音楽をし始めると、まあそういうことはほとんど気にならないし、むしろ、おやっ、そうくるか!、みたいな意外性が発揮され、楽しい音楽が展開できたように思う(都合の良いことだけ覚えているのかも

・・・)。

 もちろん、学校の先生もやりがいのあることだが、いつしか、こうした活動を日常のメインにしたい、ということで2001年、フリーの音楽療法士になった。

 音楽療法の業界でも結構積極的に勉強して、毎年のように実践発表を重ねた。


 音楽療法というタイトルがつくかどうかはともかく音楽療法士と呼ばれるような人が障がいのある人やご高齢の人を誘って音楽活動をする。そこで繰り出される音、音楽は比較的単純で、一言で言えばやさしい音楽と言ってよいかも知れない。そして、その活動はなるべく面白がってもらおうと、楽しい雰囲気を醸し出す。

 なので、その場に居合わせる施設のスタッフとかご家族の方は、音楽療法は、楽しい、と思ってくださっているだろうと思う。


 音楽療法が難しい、と感じるのは当の音楽療法士で、音楽療法が簡単なことだという話は聞いたことがない。かく言う僕も音楽療法の紹介的な議論では、とっても難しい、議論を持ち出してしまう。

 それはしようがない、とも思うんだけど、もっと簡単に楽しんで学び合い、高め合うようなことがあってもいいんじゃあないだろうか、と思い始めた。


 しかし、90年代に僕が思っていたのは、単純なことで、僕のやることで、オアイテがいい顔をする、それが僕の歓び、みたいなことだけだった。その後、そんなことだけではにっちもさっちもいかない場面もいっぱい、いっぱい体験して、難しい議論を自分なりに取り込んで、切り抜けようとしてきた。

 いいも悪いもない、そうしかできないようなことをしてきただけである。

 フリーになってからでも15年たつ。その間のいろんなことを端折って、自分自身を振り返れば、自分の音楽を繰り出す引き出しの少なさ、技の貧弱さ、その一方でオアイテ自身が「面白い!」を見つける生き生きしたに立ち会う僕自身の自然態であろう。


 音楽はやさしく、たのしく。活動は随所で面白く、でも真剣に。

 そういうことを小難しくなく語る言葉も持ちたいと思う。

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英語で論文を書く

 さて、続いて英語で論文を書くことについてである。

 英語が自分で書けるわけでもないのに、そんな気になったのは、何となくの勢い、という以外にないだろう。

 

 しかし今となっては、英語論文作成のプロセスが、大変自分の身になったことを実感している。


 第一段階はA4で1枚程度の発表の概要を書くことであった。

 大体のところを日本語で書いて、業者さんにお願いすると、ほどなくして、ほーっと感心するような英語で返ってきた。すっきりした英文である。

 しかし、気になるのは「障がい」をhandicapという言葉で書かれていた点である。またこれで自分の思いが伝わるものかどうか不安であった。僕は業者さんの英文を基に、とぼとぼと自分で英語を書くことにした。

 その後紆余曲折があって音楽療法の分野にも精通した英語の堪能な研究者の援助を受けることができた。この方は日本人だが、僕の意を汲んで、さらに僕の原文(日本語・英語)の問題点も整理して、すっきりと書いてくださった。僕の日本語が英語に変っただけではなく、論点がある程度明確になったのである。つまり、素人の日曜大工仕事をプロが整えて仕上げてくれたわけである。僕は嬉しかった。


 半年ほど経って、査読通過の連絡があった。文字通り、援助くださった研究者のおかげである。


 さてここからが英文作成の本番、30分間のプレゼンテーションの準備である。幸いなことに、カナダの大学で音楽療法の学位を取った音楽療法士が村井楽器の職員がいて、ここからは彼女に全面的に頑張ってもらうことになった。

 

 とりあえず日本語で書き、また英語で書き、それを彼女に託すのだが、彼女自身が僕の言いたいことが明瞭に分からなければ英作文ができない。何度も何度もやり取りをして、何時間もかけて作ってくれた英文を使わないことになったりもして、だんだんと僕の頭が整理され始めてきた。


 日本語だと何となくわかった気になって書けてしまっても、それを意訳して英語になったものでは、しっくりこなかいことも多かった。次第に僕の書く日本語が、単純で断定的な表現になっていく。そうなるとそこにくっついていた、僕の様々な想いはどうなるのか、結局違うところで異なった述べ方で別の言説が挿入されたりもする。


 これは、日本語を英語に置き換えるというような単純な作業ではなく、自分の頭の大掃除であった。


 もちろん日本語だけでも、このような作業は必要である。だが、英語で表現するという必要に迫られて、ようやく自分の想いを整理し始めることができたのだとも思う。


 この右往左往は、僕ひとりでは到底叶わないことだった。


 最終的に、隅々まで納得いく内容が構築できた。テーマは「村井楽器で取り組んだ音楽療法プロジェクト」であるが、この内容に関しては他の誰も知らいことを僕が知っていて、いわば「世界的権威」なのである。

 ということで、まっすぐに英語で自分の実践をアピールすることができ、予想以上のご好評をいただいた。


 英語で書く、ということはこれまで日本語で捉えていたことが、また別の角度から見ることにつながる。英語表現のため、切り捨てなければならないことが出てくる一方、その代わり逆に日本語では言いにくいことがすっきり表現できたりもする。ここでは何が大事か、常に取捨選択に迫られる。

 さらに、これはどうしても言わなければならないのだが、誰も知らない「村井楽器の音楽療法プロジェクト」を事細かに紹介して、何になるのか。要は世界中から集まった音楽療法士の方々と何を共有して議論をするのか、ということなのである。そのために、十分ではない英語を書くのである。

 僕のしたことは、ようよう入口まで来たというところだろうが、それだけでも十分に実りあり、満足をしている。



 様々な有能な方のサポートを得て、実に得難い体験をしたのである。


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素人が論文を書く

 そもそも論文を書くというのは、学者とかその卵の学生の仕事で、普通の人が論文を書く必要に迫られているわけでは、全然ない。

 音楽療法の実践者は微妙なポジションで、別に論文を書かなくても、よい実践を重ねればいい、という気もする。だが、音楽療法士の認定を受けるとか、資格の更新などを行おうとすれば、自分の実践を論文という形にまとめて発表することを求められる。


 論文を書くことに素人なりに僕は比較的ポジティブに取り組んできた。だが論文は元々専門家の作業であって、なかなかに難しいことが多い。いわゆる学者と呼ばれる人は、論文を書く専門家である。なので、大学とか大学院とか、どこそこの研究所などで、みっちりと修業を積む。

 僕の場合、そういうプロセスのないまま、いきなり自分の実践を書き連ねてきた。論文として不完全なものしかかけないのは、当たり前ともいえる。

 学者の論文を、大工さんが専門家の使う道具や材料で家を建てるのに例えれば、僕のやってきたことはホームセンターで買ってきた道具と材料で愛犬のための犬小屋を作る、つまり日曜大工、日曜研究者の仕事と言うべきものである。


 大したことも書けないのに、なんでせっせと学会発表用に論文を書くかというと、まず第一に、これは自分の実践を見つめなおす絶好の方法なのである。僕は拙い論文を書いて、論文そのものはちっとも大したことが書けないけれど、実践は少しずつ良くなっていったのではないかと思っている。人に説明のつくように考えることで、少しずつ実践現場が見えるようになってきたと感じるのだ。


 次は、いろんな人の前に自分の考えを提出することで、共通の関心興味をを持つ人との出会いが生まれ、さらに交流が可能になるということである。音楽療法業界での出会いと交流が、僕の人生に潤いと刺激をもたらしていることは間違いない。


 そしてもう一つ、僕がやっている実践を発信することは、僕のオアイテの皆さんへの慈しみ愛おしさの表現でもある。誰よりも一番彼らの身近にいて、自分の実践のあれこれに関して言えば、誰よりも分かっている、つもりなのである。結果その思い入れから「みてみて!こんなにすごいんだよ」みたいな気持ちで、ずっと発表をやってきた。


 そしてその延長で昨年音楽療法の世界大会にエントリーし、英語で発表したわけである。これはまた日本語で発表するのとは別の体験であって、そのことについては、別の項目を起こして書くことにする。


 

 

 

 

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札幌での音楽療法学会

 さる9月11日から3日間、開催された札幌での音楽療法学会に参加しました。

 今回、個人的に大きかったのは、自分のポスターによる演題発表の他、英語のプレゼンのデモンストレーションと東北震災復興支援シンポジウムにシンポジストとして参加する、といった風で3つも発表の機会が与えられたことです。幸運、光栄というほかありません。

 いずれも、自分なりにはきちんとやれたと思っています。

 こうした発表では、当然ですが当日の本番前の準備、聞いてくださった方との交流ということがあります。

 準備は、時に面倒であったり、訳が分からなくなったりしてしんどい面もありますが、こういうことを省いて学会参加すると、自分として得るものが少ないことを経験しています。それで参加する学会ではなるべく発表できるよう努力してきました。

 今回は、自らの応募の他、オファーがいただけたこと、嬉しかったです。


 ですが、大会全体のスケジュールの問題でもあるともいますが、割と短い時間帯内に研究発表とシンポジウムがあてられていて、一つ一つの発表では、オーディエンスが少ないということになりました。また自分も聞きたいと思う発表などにも、参加が難しくなるようなタイトな時間割でした。

 英語の発表は大きな会場でさせてもらったのですが、聴く人が少なく、もったいないような気もしました。それでも何人かの人がお声掛けをくださり、ああ、やってよかったなあ、と満足できました。


 発表に関しては、中身も大事です。僕の場合実践的な一連の活動の一つが研究発表で、それはオアイテとする音楽活動の一部を成しています。発表、そしてその準備で見出すことも多く、それによって実践が、多少なりともよいものに育っていくという実感は、僕の中で確かなものです。

 ですが、発表の大事な点は、自分のことだけではなく、誰かの役に立つようなことで、これからは貢献もしなければならないでしょう。


 今回講習会や講演を通じて実感したのは、誰もが同じようにできる技法的ことよりは、個人個人の感じ合い、用語としては「情動調律」というようなことが重きなしていたように思います。加えて、セラピスト一人ではなく、他職種の方とのコラボレーションや、コミュニティ的な視点も強調されていたと感じました。

 このようなことは、僕の活動の根幹をなすことで、もちろん優れた実践者というわけでもなく、十分な成果を挙げているわけでもありませんが、たくさんの経験による知識と人とのつながりも備わってきたようにも思っています。僕のやること、言うこと、そういうことがほかの人にも役立つような形で、問いかけることもこれから必要なだとも実感した次第です。



 



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9月になりました。

 暦に関わらず、猛暑が続いたかと思うと、台風やら台風崩れやら、さらに秋雨前線とやらで、うっとうしい天気が続いていた。僕らの地域はうっとうしいくらいで済んでいるが、大きな被害の出ているところもある模様。忘れたころにやってくるのが天災、というのは昔の語り草だろう。どこかで、住民生活を妨げるような何かの災害が起こっているのが、普通の状態と思わなくてはいけない。

 今日は、僕のところでは幸いさわやかな秋晴れ。もったいないくらいのお天気である。


 8月もそれなりに充実の日々であった。2週間ほどの夏休みをここ玉城町で過ごした孫たちを娘の運転する車で東京まで送り届け、そのあと盛岡に智田さんを訪ね、被災地の音楽療法を見学した。

 エールのデイ合宿とライブスペース勢の!出演も楽しかった。

 

 そのほかの日常業務の他は、9月12日、13日に札幌で行われる日本音楽療法学会参加の準備で、だらだらと過ごした。

 今回光栄なことに、3つも発表の場を与えられ、それぞれにパワーポイントで説明のスライドを作ったり、発表原稿を整えたり、ポスター作りなども行った。

 この種の種の作業は、はっきりとした終わりがない。いつも「大体できた」状態で、だらだらと日を過ごす。結局はその日が来れば、それが仕上げである。

 いわゆる研究に属する作業だが、僕の場合、対象は常に人、その人そのものであり、そこから現れる音楽である。なので、自分一人で考えることはもちろん大事だが、ほかの人に見てもらったりご意見をいただくことがとりわけ重大になる。まあ、こんなだらだらした作業が僕に身に合っているのか、飽きもせず15年くらい続いてきた。

 こうした研究作業を通して、確実に思うのは、日々の実践に反映されていくということである。実践を振り返り、考えるのだから、その結果実践が少しずつ変わっていくのは道理である。この道理を繰り返してきた、という気持ちが、また左程大したことでもないテーマを見つけて発表しようかという気持ちにつながっている。


 この夏は、「エール」をテーマに、エッセイという形と論文という形でものを書いた。いずれ皆さんにも見ていただきたものである。

東北被災地、音楽療法士智田邦徳さんに同行して

 昨年(10月16日~19日)に引き続き、盛岡在住の音楽療法士の智田邦徳さんに同行させていただき、この8月2日から4日にかけて、被災地の音楽療法の見学をした。

 昨年は、大槌、宮古、今年は陸前高田、大船渡を訪れた。


 2011年3月11日に起こった地震、津波による甚大な被害の様子をテレビのニュース映像に驚愕し、及ばずとも何らかの支援を形にしたいと願う気持ちは、日本人のみならず、世界中の人々の心に宿ったと思う。

 僕も気持ちははやったが、募金以外の具体的なアクションにまではなかなか至らなかった。続々支援に駆けつける人々の様子は見聞きしたが、自分が何かのお役に立てる自信がなく、却って足手まとい、という懸念が先に立った。

 支援活動も少し落ち着きを見せ始めた9月末と翌年8月、「未来への絆」という中学生・高校生を精力的にボランティア派遣するNPOの組織するグループに入って、がれき撤去や仮設住宅回りの草抜き作業などをさせてもらった。

 目に飛び込んでくる景色は、震災の凄まじさと、精力的な復興事業の取り組みにもかかわらず、人の暮らす息吹には程遠い大規模工事の重機やトラックの群れであった。

 罹災者の方々がどのように暮らし、何を思っておられるのか、それはもともと単純に整理できることではないだろうが、組織されたボランティアグループの活動からはダイレクトに感じ取れることが少なかった(もちろんそれは、僕自身の積極性や感性の足りなさの所以でもある)。


 僕は普段音楽活動を通して個人の生活の一端を支えることを生業としている。何もかもうまくいっているわけではないが、楽しい日々である。そのような感覚で、例えば仮設住宅に暮らす人々に、ひと時でも安らぎとなる時間を提供できる自信はなかった。

 被災地で取り組まれている音楽療法から学ばなければならない、という直観が頭をもたげ、そんな折智田邦徳さんと出会った。智田さんは「いつでもどうぞ」と受け入れてくれた。

 智田さんと東京で会い、オーストリアのクレムスで出会い、名古屋で会い(大体音楽療法に関わる会です)、その都度僕の希望を伝え、2014年10月の訪問が実現したのである。


 盛岡駅で迎えてもらい、遠野の道の駅で休憩し宮古までは2時間半以上のロングドライブである。仮設の商店街でカレー昼食の後、午後のセッションとなった。

 車一杯の荷物が集会所で広げられる。衣類である。お集まりの皆さんはサイズや色目とデザインを見て、各自1着ずつ手にした。そこの自然な空気は、智田さんがお集まりの皆さんとの間にこれまで積み上げられた信頼感を物語っていた。

 そのあとは音楽療法士としての智田さんの達者な「芸」をひたすら楽しむ時間となった。

 セッションの終わりには編み物のハウツー本と編み棒、毛糸が広げられた。持っていく人もいれば、いらないという人もいる。僕はこの方たちが仮設で過ごす時間をほんの少しだけ思った。

 続いて大槌夢ハウス、ここについては、改めて書かなければならないことがいっぱいある。ここでは、智田さんが、「芸」を封印して、子どもたちと成り行きに任せて遊ぶことに徹していたことが、きわめて印象的であった。

 そのあとの吉里吉里、翌日の宮古のセッションも見せてもらった。

 いつの間にか、僕は被災地の音楽療法ではなく、智田さんのセッションを楽しんでいた。


 今年の訪問は、盛岡さんさ踊りのお祭りのさなか、陸前高田の公民館、大船渡の保育園であった。被災地、罹災者から学びたい、というベースはあるものの、実は智田さんの「芸」を楽しみにやってくるお気楽な自分がいる。


 何十年もすれば「被災地の音楽療法」ということで、いずれまとまりの付けられるようなことがあるのかも知れない。もちろん智田さんが被災地の音楽療法を代表するわけでもなんでもなく、個別の取り組みの一つなのであろう。元々「被災地の音楽療法」などということではなく、目の前の人々へのアプローチ、その個別の営みを見聞きすればよいのである。


 そこに僕が見るのは智田さんの「つなぐ」という役割である。仮設に暮らす人々がどのような経緯でそこに住まうようになったのは知らない。だが必ずしもかつての隣近所が集まったわけではない。そのような人々が、参加者からすれば「面白い」「何かすっきりする」時間を一緒に過ごす、その中心になっているのである。

 最初に広げられた衣類など、それはおそらく直接被災地まではいけない人が智田さんに託したものであろう。また仮設暮らしの中で作った小物などの販売はこれまた智田さんが引き受けているのである。原料と製品を行き来させ、人々を生き生きさせることにつなげる活動と言えるであろう。

 またはるばる遠隔地から震災地の音楽療法活動に関心を持つ人は、いっぱいいる。ご縁を得て智田さんのコーディネートで実態に触れる人も少ないないはずだ。

 実はもう一つ、智田さんの仮設巡回の副産物のような成果が三陸の方言収集である。これもいずれ、様々な地域を結びつけることになるのかも知れない。


 智田さんは盛岡在住である。片道2時間半の道のりは、たやすいことではない。今回僕がしみじみと感じたのは、彼は決して地元だからやっているわけではない、ということである。

 以下、想像でものを言うのだが、彼は、たまたま甚大な痛みを伴った罹災者のコミュニティの再創造のプロセスに立ち会ってしまった。その後の彼の営みは、いわば成り行きの中で、そこに身を投じることを、ほかの選択肢はありえないくらいの並々ならぬ意志を伴って湧き上がった決意とその実行なのではないだろうか。

 震災と津波被害が多くの人の命や人生を奪っていくことを目の当たりにした智田さんの思いを、僅かであはるが自分なりに理解し、僕自身が具体的にどうつながるかを考えている。それは僕の生き方の選択にほかならない。

ブームと文化

 女子サッカーのワールドカップで準優勝したなでしこジャパンの主将宮間さんが「女子のサッカーがブームではなく、文化になるために」という発言が再々マスコミに取り上げられた。

 好きでやっているとはいえ、競技を継続する選手の環境は、男子と比べて、プロとしてはなかなかに厳しいものがあるらしく、そこを変えていくためには、一過性のブームではだめで、地道な文化活動にならなければならない、というようなことかなあ、と想像をめぐらした。

 

 

 ブームと言えば、私の周りにもいろいろあった。もう半世紀も前だが、学生運動のブームが学園に吹き荒れ、ヒッピーブームのなごりの様に男の長髪ブームがあり、フォークブームのさなかに僕は学生時代を過ごした。

 

 もちろんやがてブームは去り、何が文化として残ったのか、あるいは何も変わりはしなかったのか・・・・。

 

 時代は大きく進んで、これはまだ10数年前位のことだが、「音楽療法」もある種のブームの様相を呈し始めた。で、これは「音楽療法士」という新たな職業が日本の社会に生まれ定着するか、という話で、「日本音楽療法学会」というこれまでなかった新しい業界団体ができた。

 この頃、音楽系の大学にも「音楽療法コース」が次々新設されたりもした。だが、様々な事情であろうが、大学の音楽療法コースはぽつぽつと消え始めている。

 音楽療法ブームは確実に冷めているのだろう。

 で、何が残ったのか、あるいはそもそも何も起こらなかったのか・・・・?

 

 女子サッカーにしろ、音楽療法にしろ、ブームが文化として定着するかどうかの日本社会、あるいは日本文化の在り方について、論じることは、僕にはできない。

 

 ただ僕の個人生活に関して言えば、様々なブームに、少なからず、あるいは場合によっては大きく影響を受けてきたことは、もちろん間違いない。


 15年間ばかり音楽療法というフィールドを学びと発言の場と定めて、僕は自分の活動を、それなりに一所懸命にやってきた。これはブームに身を投じたというより、個人としてとてもユニークな選択をした、と思っていたら、そんな人が珍しくもなく、まるでブームの様に多くの人が音楽療法の旗印に集まった来るのを実感したということである。

 「音楽療法」の講演にもそれなりにたくさん耳を傾け、感銘を受けたり、敷居の高さに馴染めなかったり、それこそ揺さぶられるままの日々であったと思う。

 

 この間、幸い、仕事として「人と音楽をする」ことを通して、絶えず様々な発見をし、その都度自分のやれることで音楽が生まれる瞬間を幾つも味わい、豊かな時間を過ごすことができた。そしてこれも、絶えず、なのだが、人との出会いに恵まれ、日常の活動のバリエーションの変化や質の向上につながっていることを実感している。

 

 いくつかのブームに翻弄される日々は自分らしい自分を知るための、状況的な変数でもある。

 しかし、いくら「僕自身」などといっても、無自覚的なことも含めて全体に飲み込まれてる。それが社会であり、文化であるということであろう。

 

 

 政治的な状況に関しては飲み込まれるだけではなく、個人的な思い、気持ちに根を持つ発言というものが、厳しく求められているのを実感している。 

音楽療法とは

 音楽療法とは、と尋ねられてすっきり簡潔に答えられる誠実な音楽療法士はあまりいないように思う。

 もう15年もフリーの音楽療法士でありながら、僕も自分の活動をあえて「音楽療法」とは言わないことが多かった。


 でも「音楽療法」なんて言葉を聞いたことのない人でも「ああそうか。」と分かるような答えを今から書いてみようと思う。


 音楽療法は人が音楽することでより元気(あるいは健康)になることです。それを音楽療法士がその人に呼びかけて一緒に活動し、その人を見守るプロセスが音楽療法です。

 実践はまさに音楽することで、歌ったり演奏したりだけじゃなくて聞いたり、作曲したり、また思い浮かべるだけでもいいのです。

 その理論は、主に心理学・医学・福祉・教育学・社会学などの科学的な根拠に基づいて、実践を通して形成されつつあります。

 僕は職業としての音楽療法士ですけど、資格のない人でも、「音楽療法士」の役割を十分に果たしている実例はたくさんあります。

 音楽療法で大事なことは、通じ合う時間を共有する音楽が生まれ、それをお互いに楽しむことです。人をより元気(健康)にする様々な効果もそこから派生してきます。



 まだまだ制度上のことや歴史のついても言いたいけど、初めて聞く方はこれで十分だろう。

 専門家の方はこんな言い方に問題を感じる方もあろうかと思う。是非ともご指摘いただきたい。

 

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声は嘘をつかない

 声は嘘をつかない!という魅力的な言葉を聞いたことがあります。その前に「言葉は嘘を使うが、・・・」という前置きもあります。

 何が嘘で、何が嘘でないかを考え出すとややこしいので、「言葉の嘘」については言及しません。

 声がその時の体調や思いや気持ちやらがいっぱい詰まっていることは誰でも知っています。僕が音楽療法士としてオアイテの前に立つ時、とてもおしゃべりな人ももちろんいる。ですがあまり声を発しないで、僕のお誘いや指示を受け止めて活動をする人も少なくありません。声がないからと言って心がこもっていないわけはないのですが、出そうと思えば声が出ないわけでもないので、まあ、平たく言えば面倒なんでしょう、返事もしないでことを済ませてしまうように映る時も、結構あります。

 音楽療法士は「無理強い」はだめということになってますので、こんな場合は何気にたんたんと事態が進行するわけです。

 「だんだんしゃべらなくなってきたように思う」というお母さんの一言を受けて、僕は声を出してもらおうと思うようになりました。10代後半のダウン症の女声です。発声練習と称して、僕は文字にはできないいろんな声を出して真似るように促しました。その多くは普段歌唱や会話の言葉に使うようなきちんとしたものではなく、だみ声とか呻き声とか言われてしまいそうな「汚い声」でした。

 彼女は「くっくっく・・・」と声にはならない声を出して笑いました。

その後、セッションの度に「発声練習」をしました。僕はいろんな声を試して彼女を誘うのですが、応じてくる彼女の声は概ね普通で、僕がなるべく長く伸ばすように「あー」と声を引っ張ると、彼女なりのロングトーンを出してきました。

 彼女の場合、声を出そうと、思って脳から指令を出して咽頭や声帯に準備をさせるのに相当時間がかかります。横で見守る僕にはその間がたまりません。

 僕は迷わず、彼女とハーモニカを吹きました。ハーモニカを響かせるのに十分な息が声になっていたからです。

 

 先般ライブスペース勢の!に出演して、軽快なドラミングを披露した、後僕とハーモニカのデュオを試みました。

 

 ブースカ、ブースカやるうちに呼吸が安定してくる。次第に僕は「ふるさと」とメロディーを吹いていくと、もちろん彼女はドレミの位置などは無視していますけれど、歌のメロディにリズムを合わせてきます。

 ハーモニカは息を吐いても吸っても音が出ますが、それでもフレーズの切れ目で長いブレスが入ります。この時こそ、僕と彼女が自分の息を整え合わせるための間、なのです。

 

 言わされたり、吹かされたりするのではない、彼女のホントの声がハーモニカの優しい音色になったのを、僕はずっと実感していました。このライブのステージでも、彼女自身が見事にハーモニカで表現されたと思いました。

 

 幸い、観客席にいた友人からも「よかった」と言ってもらいました。技術的に素晴らしい演奏は圧倒されますが、それよりも心動かされる演奏があることを知った、とも言ってもらいました。

 

 彼女と発声練習をするようになってからグループの活動にも発声練習を積極的に取り入れました。メンバーのエネルギーがこもる声が少しずつ歌という形になっていくのを実感でき、手応えは十分です。  

 


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自分の弾き語り

 北村さんというギター弾き語り大好きの人です。先日の「よっつんと勢の!の仲間たち」というライブに出てもらいました。その時の写真です。

 

 この日、北村さんは、ギターで、「瀬戸の花嫁」や「アメリカ橋」を本当に心地よさそうに演奏してくれました。もちろん、マイクがあって観客がいれば、それはテンションも上がるだろうし、気分もいいに違いない。そう思います。

 

 ですが、彼は自分でいつもよく言うのですが「毎日ギターは欠かしたことがない」人で、それは誰かに聞かせるとか、練習をしてかっこいいところを見せようとかいうのとは違うように思うのです。ひたすら、ギターに触り、そのギターサウンドにのせて好きな歌を口ずさむ、その自分の心地よさがすべてなんだろうと感じます。思わず唇から笑みがこぼれてしまうような、そんな楽しさです。

 

 思えば、誰にもそんな時期があったはずです。自分の指がギターの弦に触れて懐で響く快感。慣れればどんどんいろんな音が紡がれる。この時、実は自分で弾いて、自分で鑑賞しているわけですけど、その時自分の心の中では、どんな名人の演奏よりも素晴らしい音楽が流れていたはずなんです。

 

 そこんところは多分、今プロで活動するような卓越した技術を備えた人であっても、全くおんなじ原点なんだろうと思います。

 北村さんの演奏からは、そんなことをつい連想してしまう楽しさが伝わってきます。

 

 もう一つ、ただ楽しいだけじゃない、それはギターをつま弾いた瞬間からずーっと北村さんが鳴っているんです。演奏するのはオリジナルでもなんでもなくみんながよく知っている歌謡曲なんですけど、徹底的に北村さんならではのサウンドが奏でられます。

 これって、もしかしたらプロのミュージシャンがそうありたいと願って日々精進してもなかなかたどり着けない、名人と言われるにふさわしい状況なんじゃあないでしょうか・・・・。

 名だたるミュージシャンは一声発しただけで、ああ北島三郎だとか、八代亜紀だとか分かってしまう個性に満ちた表現をします。

 そこへ北村さんを並べるのは、却って誤解を生むようなことなんですけど、僕の中では技術を超えて自分を表現していくことの見本を見せられた気がするんです。

 

 僕も北村さんを目指して自分の歌を歌ってみたいと、最近一人ライブを始めました。ギターも歌もマイクを通して、弾き語りするんです。観客は歌っている僕一人です。ちょっと練習っぽい時もありますけど、あくまでコンサートやってます。

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月の初めに

5月が終わりました。この1か月は僕の身の回りで実にいろいろなことが起こり、その都度、ちょっとバタバタしたりもしながら、楽しく充実の時間を過ごすことができました。

 

 まず、2日から4日にかけて浜松まつりに出かけました。娘の夫が生まれた育った浜松の凧揚げを軸に据えたまつりは、それまで話には聞いていたものの、まあびっくりの多かったこと!このまつりは生まれてきた幼い子どもの健やかな成長を願って地区の人が総出で大きな凧を揚げるものです。それにまつわる前後の諸行事も含めて、長年人々が培ってきたしきたりやノウハウがいっぱい詰まっていて、正直感動でした。神様や仏様への奉納ではなく、幼子のために大人が必死になって〈遊ぶ〉のです。

 このことはまたゆっくりと描きたい。

 

 10日にはエールのデイ合宿があって、一日メンバーと音楽しました。これも楽しい遊びでした。

 

 大阪からコミュニティミュージシャンの「よっつん」を迎えたのは16日からの3日間で、一緒に僕の仕事であるセッションに出かけたりもしました。よっつんは「ライブスペース勢の!」にもゲスト出演し、そのあと僕の仲間たちと素敵なライブコンサートしてくれました。胸熱くなる瞬間がいくつもある、素敵な時間でした。

 

 そして、昨日、5月31日ですけど、三重大学の根津知佳子先生を迎えて音楽療法の勉強会を催したところ、50人近い人が集まってくれました。

 

 よっつんのライブと根津講演会は「MTちいき」の主催で、企画は僕が中心になって進めました。準備などでは、僕の意を汲んでMTちいきの事務局を預かる能勢さんという女性が頑張ってくれました。僕の思いが大勢の人の協力で形になっていく過程は、忙しかったりもするけれど、楽しい、いや僕にとっては有難い、としか言いようのない時間でした。

 

 9月に札幌で行われる音楽療法の大会に向けて、論文の準備もしました。またほかの人の実践をまとめるお手伝いもしました。そんなこんなで5月の前半は音楽の現場で起こったことの意味を言葉で考えることに、かなりの時間を割きました。僕にとっては大事な作業です。

 

 もう一つ、30日に若いミュージシャンがスタジオを訪ねてくれました。彼の心の旅路を象徴するかのようなオリジナル曲もきかせていただき、刺激も受けました。

 

 もちろんこうしたややスペシャルなこととは別に、普段の定期的な音楽活動は続いていて、そこでも大なり小なり、様々な発見をして楽しみました。

 

 6月はどんなふうに過ぎていくのでしょうか・・・。常に在庫一掃をモットーとする僕でも、少しは自分を見つめるような時間もいりますよねえ・・・。

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