4月は作文月間でした

 昨夜来の雨と風で洗われたかのように、この上ない晴天で、時折吹く風も心地よい。ゴールデンウィークは、畑(何かを栽培しているわけではない、草だらけの土地)や庭先の草刈りなど、普段なかなか手が付けられない作業や部屋の片づけをのんびりと行うようになって、何年かになる。もはや恒例と言っていいだろう。

 

 そんな中、昨日は若い人と庭先でバーベキューを楽しんだ。火を起こし、肉や野菜を焼きながら頬張る、おいしいし、楽しい。せっかくだから、こんなことも恒例になると嬉しいのだが・・・・。

 

 4月はいくつか実践をまとめる論文を書いた。もうちょっと時間がかかるかとも思っていたのだが、比較的スムーズにはかどり、締め切りを前に終えることができた。

 文章を書くのは嫌いではない。それどころか、頼まれもしない文章をあれこれ書かずにはおれない性分なのだ。そもそも、誰かと話をするのとは違って、本を読んだり、文章を書いたりするのは孤独な作業のはずである。しかし僕は自分の書きたい思いと仕上がりの文章の間のギャップが気になって、不安になる。幸い、途中の文章を読んで意見をくれる友人がいたりして、これはもうありがたいの一語である。

 で、今回の作文でも数人の人にご厄介をかけた。まずは僕のことを知る人が文を読んで納得できるようなものにしなければ、始まらないとも思うのだ。貴重なご意見で励まされ、考え直し、文章に修正を加えていく。個人であって、必ずしも個人だけでない作業ができるので、これは嬉しい。加えて締め切りをにらみ、人の意見を聞くためには、早いとこ自分の作文ができていなければならない。ということで、いやでも作業が進むというわけだ。

 

 そんな作業をいったん終えて見上げる快晴は心地よいが、つくづく思うのは書こうとすること、書き連ねながらあれこれ浮かぶ諸々、それらは絶えず揺れ動くもので、それが一つの方向性をもって収斂していくプロセスこそが、僕にとって大切なのだ、とつくづくに思う。

 自分の気持ちや心が定まらない限り、人に通じる文章にはならないのだ。ようようにして、自分の書きたいことを書く、心の定点のようなものが見え始めた気がしてる。

 まあ、一仕事終えたところだからそう感じたとして、次の作文にかかれば、またゆらゆらと揺れ動くことは間違いない。