グループセッションの空気感

 1月12日(火)長島ミュージックサークルという知的障害のある30歳代から50歳代の10人くらいの成人のセッションを行った。基本月1回で、もう10年近いお付き合いである。ここ数年は年間8回くらいの取り組みで、この日も2か月ぶりであった。

 思い思いに楽器を手にして、好きに鳴らしている風なのだが、リーダーを務める僕のことは自然に意識し、リズムも合わせてくるし、何より僕と一緒に間、音のない時を作る。その時、僕は一番一人一人の集中を感じ、次に出る音を待つ。そのグループでしか味わえないその時だけの素晴らしい音楽である。それをメンバーも味わっている、と感じられるのである。

 

 1月14日(木)は、児童療育の施設で3歳くらいの重度の障害を負った10数名の子どもとのセッションであった。2回目であるが、半数は僕とやるのは初めてである。

 前回は子どもたちの意識や活動の方向性をこちらに向けて欲しいという願いで、一人ひとりに慎重なアクセスをした。

 ところが、2回目のこの日は、いきなり一人一人が僕に向かってくる感じを受け止められた。一人ひとりに手に合いそうな楽器を配り、力強い反応もたくさん得られた。そうこうするうちに僕が音を出すのをやめたりすると、見事に音のない空白も生まれた。少し大きな太鼓を出して、一人ひとり前に出て叩いてもらう、という活動もした。音や音楽によらない、ある種のルールを入れたわけである。もちろんそこの先生方や保護者のサポートがあってのことだが、歩けない子ははいはいで出て来るし、太鼓のところではなく、まず道具のたくさん置いてあるスペースまで行って、大太鼓用の大きなマレットを取り出したり、僕の差し出す太鼓ではなく、ギターにしきりに触り来たり、それこそ自分の気持ちを前に出してやってきてくれた。

 こうなると何をやっても楽しいのである。もともと幼い子どもはエネルギーに満ち、それがこのような雰囲気で発揮されるのは、まさに音楽する喜びそのものである。

 

 同じ14日(木)午後は、知的しょうがいのある人が集う作業所に出かけた。昨年の大成功に味をしめ、今年も2月のライブに出演しようと、何とか形を作ろうというわけである。ここも昨年ライブ前の3回のお手合わせの時は、本当にへとへとになって、とりあえず僕の方をめがけて音を出してもらうことにエネルギーを注いだ。それがもうずいぶんと自然に音の重なりが、ある種の方向性を感じられるようになってきたのである。

 今年はロックミュージシャンの久田さんを駆り出して、何とかロックテイストの音楽をやってみようと考えた。久田さんのアイディアで、「ドン、チャン、ドン、チャン、・・・」みたいな単純なリズムの繰り返しの中で、エレキを鳴らしてもらうことになり、その通りのことをやってみた。音は出さないが、飛び上がらんばかりに喜ぶ人もあれば、体を揺らしてリズムを割ときっちり取ってくる人もいて、雑然と鳴っていた音に楽しいムードが漂い始めた。面白い!僕の願いが何とか形になりそうである。

 

 場所もメンバーも事情もやっていることも、全然違う3つのグループセッションを、比較的短期間で味わい、そのグループが僕と混じって一人ひとり自由なことをできる空気感を生み出しているような気がした。

 

 音楽療法で、何をどうこうするというよりは、バックグラウンドになる空気、空気感こそ、活動の源なんだなあ・・・・、としみじみを思うのです。