面白い、ということ

 先般、北山修の本から「二者間の二重の交流」について書いたが、もう一つ僕が興味をひかれたのが「面白い」の語源に触れた部分である。


 面白いというは、昔火を囲んで何人かが話しに興じていて、面白い話だと、顔があがり、ぱっと明るくなる、つまり面(顔のことか)が白くなる、というのである。

 ネットの語源辞典のようなもので確かめると、やはりこの話が出ていて、だが後世作られた俗説、とのことである。

 事の真偽は、この際どうでもよくて、面白いという現象に僕は非常に心ひかれた。


 音楽を通して、非日常の感覚を味わうことはたくさんあって、音楽のフィールドではこうした音楽の力について多様な議論がある。例えば「異界」としか言いようのない世界が現出したり、また作曲家が普段はこんなフレーズ思いつくはずもないんだけどその時「降りてきた」という言い方をしたり、何となく神がかり的なこともよく言われる。

 自分の感覚として、音楽世界におけるこのような「異界」とか「降りてくる」という言い方も十分に想像のつくことである。で、こう言ってよければ、僕が音楽療法として行う日々のセッションでもこれと似た状況は体験していると思うのである。

 とはいうものの、僕がオアイテとする音楽で「異界」が生じたり、見えたりしたかと言えば、そんなにたいそうな表現には当たらない。


 そこで冒頭の「面白い」である。「異界」から急に話のトーンがダウンしたと思われるかも知れないが、案外そうではないと思う。

 「面白い」というのはどこか、それこそ金庫にしまってあったり、誰か特別な人が体に秘めているものでもない。ある状況で、あるタイミングで、ある言葉(音楽も)が、ある強さ(あるいは弱さ)で発せられた時、その瞬間、それを受け止める人の心が共振して、ぱっと顔があがって明るくなる、そういう現象なのである。

 そこには、背景となる、いわば坦々と過ぎる状況があって、それをちょっとずらしたり、あるいは瞬間的に猛烈に破ったりして、それを受け止めた人が、言いようのないものを発見した時、初めて「面白い」が成立するのである。

 このような相互交流なしには、「面白い」は絶対成り立たない。


 「面白い」を追求するのは、音楽よりむしろ落語などの話芸あるいはコントなどのお笑い、である。

 プロの芸人の作り出した瞬間の面白さを、そこに居合わせなかった人に伝えるのは至難の業で、面白がった人の話を聞かされても、たいてい面白くない。つまり異なった状況では、面白さはすでに消えていて、もともとそのこと自体が面白いわけではないことが多いのであろう。


 ここから見えるのは、まず、状況つまりはコンテクストがしっかり共有されて、つまりは複数の人がそこそこ同じ時間を共有していること、その上で、行く筋をずらしたり(自然にずれたり)、大なり小なり爆発があったり、でもそれは目に見えるものではないので(実際のパフォーマンスを見ていたとしても)、それを発見する、ということである。

 状況、ずれ、発見、これが「面白い」の要件だとして、そういう音楽が展開されれれば、きっとその時間は「面白い」に違いない。

 このような時間の体験、若干の非日常、少し心が上気し、日常への力になるかも知れない。音楽療法がそうであれば、本当に素晴らしい。


 ところで、僕がそんなこととも露思わず、あれこれ模索しながらも目指していたのは、単純にオアイテと面白い時間を作ることだったのかも知れません。そうだといいけど・・・・。