「二者間内交流」「二者間外交流」

 しばらく前に、友人から「この本はきっと喜ぶだろう」と1冊の本を紹介されました。北山修の「最後の授業」で、彼の九州大学でのいわゆる最終講義が活字になったものです。

 案の定大喜びで、一気に読みました。


 内容的にはほかの本で知っていたこともあるのですが、改めて心に留まったのが「二者間内交流」と「二者間外交流」で、まあこれは北山先生(僕は先生と呼ぶほどの近しい間柄ではありませんけど)の言葉遣いだと思います。

 1枚の浮世絵から先生の説明が始まります。赤ん坊がお母さんに抱かれ、お母さんは我が子を片手に抱いて、もう片一方の手で棒に括りつけたお魚の絵をひらひらさせながら、「お魚(トト)よ」とあやしている図です。2人は身を一つにして、微笑みながら、オトトとを見ているわけです。この二人の視線は、これまた北山先生が共視と呼ぶ現象です。

 赤ん坊が全く安心して、身を委ねて一心に(全力でと言ってもよいでしょう)オトトを目で見て「オトト」という発音を耳で聞き、言葉を覚えていくわけです。

 母親が自分の身に備わった言葉、もっと広くは文化そのものがこうして我が子に伝えられる、体験的な学習が「二者間外交流」ですが、その時同時に「あれなんだろう・・・」「おもしろそう・・・」と赤子が興味をそそられるのは、ふたりの間に安心の交流があるからで、ここが「二者間内交流」というわけでしょう。


 別の言い方では、僕らは、先生から勉強を教わり、言葉や数、その他の様々な事柄を覚えつつ、人生というか、人として、あるいは日本人として生きる姿も学んでいくわけです。二つの交流は同時に起こっている(これ、僕の説明で、北山先生が言ってるわけじゃありません)。


 二者間外交流の方は、それこそテストでもすれば、うまくいっていたかどうか、検証もできる。あるいは、もっとうまい方法で教える方法があるかも知れない。ですが、二者間内交流は、簡単には言語化もできないし、目に見えるものでは決してありません。


 こう考えていくと、僕の生業である「音楽療法と」いわゆる「音楽教育」との共通項とニュアンスの違いが見えてきます。

 両方とも音楽を通して(聴いたり、歌ったり、演奏したり、あるいは即興や作曲もしたりして)、音楽の技術や知識を学ぶプロセスです。同時に、このプロセスで、先生に対して尊敬の念をもったり、あこがれたり、またこれまでできなかったことができるようになって自信を持ったりして、人として成長していくわけです。

 で、僕らの音楽療法を念頭に置けば、当然何よりも二者間内交流に重きを置く。二者間外交流で学んだり練習するのはあくまでも手段だと言ってよいでしょう。

 一方、音楽の先生は違うんじゃあないでしょうか。当然二者間の交流を念頭に個別に対応しながらも、結果として知識や技術を身につけさせなければならない。つまりは文化の担い手を養成する面が強いのではないでしょうか。


 僕は、違いは違いとして、両者の共通の部分で、もっと学校や音楽教室の先生と音楽療法士が交流するといいとかねがね考えていて、この「二者間内」「二者間外」の二つの交流の北山先生の説明は、みんなに分かりやすいんじゃないかと思った次第です。


 実はこの本で、もう一つ浮かんだアイディアがあるんですけど、それは改めて、別に書くことにします。