音楽療法の音楽と議論

 僕は1990年頃、中学校の教員として障がいのある子どもとの音楽活動に精を出し、手ごたえ得て、その後95年頃からは、大して頼まれたわけでもないので、わざわざ学校の外にまで出て行って、いろんな人と音楽をしてきた。もちろん、オアイテは、何がしか障がいだとか問題とかを抱えている人たちである。

 確かに勉強や仕事、あるいは日常生活ではその障がいが頭をもたげる。だが音楽をし始めると、まあそういうことはほとんど気にならないし、むしろ、おやっ、そうくるか!、みたいな意外性が発揮され、楽しい音楽が展開できたように思う(都合の良いことだけ覚えているのかも

・・・)。

 もちろん、学校の先生もやりがいのあることだが、いつしか、こうした活動を日常のメインにしたい、ということで2001年、フリーの音楽療法士になった。

 音楽療法の業界でも結構積極的に勉強して、毎年のように実践発表を重ねた。


 音楽療法というタイトルがつくかどうかはともかく音楽療法士と呼ばれるような人が障がいのある人やご高齢の人を誘って音楽活動をする。そこで繰り出される音、音楽は比較的単純で、一言で言えばやさしい音楽と言ってよいかも知れない。そして、その活動はなるべく面白がってもらおうと、楽しい雰囲気を醸し出す。

 なので、その場に居合わせる施設のスタッフとかご家族の方は、音楽療法は、楽しい、と思ってくださっているだろうと思う。


 音楽療法が難しい、と感じるのは当の音楽療法士で、音楽療法が簡単なことだという話は聞いたことがない。かく言う僕も音楽療法の紹介的な議論では、とっても難しい、議論を持ち出してしまう。

 それはしようがない、とも思うんだけど、もっと簡単に楽しんで学び合い、高め合うようなことがあってもいいんじゃあないだろうか、と思い始めた。


 しかし、90年代に僕が思っていたのは、単純なことで、僕のやることで、オアイテがいい顔をする、それが僕の歓び、みたいなことだけだった。その後、そんなことだけではにっちもさっちもいかない場面もいっぱい、いっぱい体験して、難しい議論を自分なりに取り込んで、切り抜けようとしてきた。

 いいも悪いもない、そうしかできないようなことをしてきただけである。

 フリーになってからでも15年たつ。その間のいろんなことを端折って、自分自身を振り返れば、自分の音楽を繰り出す引き出しの少なさ、技の貧弱さ、その一方でオアイテ自身が「面白い!」を見つける生き生きしたに立ち会う僕自身の自然態であろう。


 音楽はやさしく、たのしく。活動は随所で面白く、でも真剣に。

 そういうことを小難しくなく語る言葉も持ちたいと思う。