東北被災地、音楽療法士智田邦徳さんに同行して

 昨年(10月16日~19日)に引き続き、盛岡在住の音楽療法士の智田邦徳さんに同行させていただき、この8月2日から4日にかけて、被災地の音楽療法の見学をした。

 昨年は、大槌、宮古、今年は陸前高田、大船渡を訪れた。


 2011年3月11日に起こった地震、津波による甚大な被害の様子をテレビのニュース映像に驚愕し、及ばずとも何らかの支援を形にしたいと願う気持ちは、日本人のみならず、世界中の人々の心に宿ったと思う。

 僕も気持ちははやったが、募金以外の具体的なアクションにまではなかなか至らなかった。続々支援に駆けつける人々の様子は見聞きしたが、自分が何かのお役に立てる自信がなく、却って足手まとい、という懸念が先に立った。

 支援活動も少し落ち着きを見せ始めた9月末と翌年8月、「未来への絆」という中学生・高校生を精力的にボランティア派遣するNPOの組織するグループに入って、がれき撤去や仮設住宅回りの草抜き作業などをさせてもらった。

 目に飛び込んでくる景色は、震災の凄まじさと、精力的な復興事業の取り組みにもかかわらず、人の暮らす息吹には程遠い大規模工事の重機やトラックの群れであった。

 罹災者の方々がどのように暮らし、何を思っておられるのか、それはもともと単純に整理できることではないだろうが、組織されたボランティアグループの活動からはダイレクトに感じ取れることが少なかった(もちろんそれは、僕自身の積極性や感性の足りなさの所以でもある)。


 僕は普段音楽活動を通して個人の生活の一端を支えることを生業としている。何もかもうまくいっているわけではないが、楽しい日々である。そのような感覚で、例えば仮設住宅に暮らす人々に、ひと時でも安らぎとなる時間を提供できる自信はなかった。

 被災地で取り組まれている音楽療法から学ばなければならない、という直観が頭をもたげ、そんな折智田邦徳さんと出会った。智田さんは「いつでもどうぞ」と受け入れてくれた。

 智田さんと東京で会い、オーストリアのクレムスで出会い、名古屋で会い(大体音楽療法に関わる会です)、その都度僕の希望を伝え、2014年10月の訪問が実現したのである。


 盛岡駅で迎えてもらい、遠野の道の駅で休憩し宮古までは2時間半以上のロングドライブである。仮設の商店街でカレー昼食の後、午後のセッションとなった。

 車一杯の荷物が集会所で広げられる。衣類である。お集まりの皆さんはサイズや色目とデザインを見て、各自1着ずつ手にした。そこの自然な空気は、智田さんがお集まりの皆さんとの間にこれまで積み上げられた信頼感を物語っていた。

 そのあとは音楽療法士としての智田さんの達者な「芸」をひたすら楽しむ時間となった。

 セッションの終わりには編み物のハウツー本と編み棒、毛糸が広げられた。持っていく人もいれば、いらないという人もいる。僕はこの方たちが仮設で過ごす時間をほんの少しだけ思った。

 続いて大槌夢ハウス、ここについては、改めて書かなければならないことがいっぱいある。ここでは、智田さんが、「芸」を封印して、子どもたちと成り行きに任せて遊ぶことに徹していたことが、きわめて印象的であった。

 そのあとの吉里吉里、翌日の宮古のセッションも見せてもらった。

 いつの間にか、僕は被災地の音楽療法ではなく、智田さんのセッションを楽しんでいた。


 今年の訪問は、盛岡さんさ踊りのお祭りのさなか、陸前高田の公民館、大船渡の保育園であった。被災地、罹災者から学びたい、というベースはあるものの、実は智田さんの「芸」を楽しみにやってくるお気楽な自分がいる。


 何十年もすれば「被災地の音楽療法」ということで、いずれまとまりの付けられるようなことがあるのかも知れない。もちろん智田さんが被災地の音楽療法を代表するわけでもなんでもなく、個別の取り組みの一つなのであろう。元々「被災地の音楽療法」などということではなく、目の前の人々へのアプローチ、その個別の営みを見聞きすればよいのである。


 そこに僕が見るのは智田さんの「つなぐ」という役割である。仮設に暮らす人々がどのような経緯でそこに住まうようになったのは知らない。だが必ずしもかつての隣近所が集まったわけではない。そのような人々が、参加者からすれば「面白い」「何かすっきりする」時間を一緒に過ごす、その中心になっているのである。

 最初に広げられた衣類など、それはおそらく直接被災地まではいけない人が智田さんに託したものであろう。また仮設暮らしの中で作った小物などの販売はこれまた智田さんが引き受けているのである。原料と製品を行き来させ、人々を生き生きさせることにつなげる活動と言えるであろう。

 またはるばる遠隔地から震災地の音楽療法活動に関心を持つ人は、いっぱいいる。ご縁を得て智田さんのコーディネートで実態に触れる人も少ないないはずだ。

 実はもう一つ、智田さんの仮設巡回の副産物のような成果が三陸の方言収集である。これもいずれ、様々な地域を結びつけることになるのかも知れない。


 智田さんは盛岡在住である。片道2時間半の道のりは、たやすいことではない。今回僕がしみじみと感じたのは、彼は決して地元だからやっているわけではない、ということである。

 以下、想像でものを言うのだが、彼は、たまたま甚大な痛みを伴った罹災者のコミュニティの再創造のプロセスに立ち会ってしまった。その後の彼の営みは、いわば成り行きの中で、そこに身を投じることを、ほかの選択肢はありえないくらいの並々ならぬ意志を伴って湧き上がった決意とその実行なのではないだろうか。

 震災と津波被害が多くの人の命や人生を奪っていくことを目の当たりにした智田さんの思いを、僅かであはるが自分なりに理解し、僕自身が具体的にどうつながるかを考えている。それは僕の生き方の選択にほかならない。